デビューとその後
――小説の執筆については高校時代以降、ちゃんと書き始めたのはいつだったんですか。
河村さんに「何か書いたら『群像』に送ったらいいよ」と言われていたんですが、なかなか暇がなかった。当時勤めていた会社で商品のパンフレットを作ったり、広報誌のデザインをやったりしていたんです。DTPは大変でしたね。小説家も、ああいう作業を知っていたほうがいいと思うんですよ。編集の苦労を知らないで、コラムを字数超過して書くのが格好いいみたいな錯覚がなくなりますから(笑)。あくまで紙媒体の話ですけどね。
ロックに、27クラブっていう都市伝説がありますよね。カート・コバーンもジミ・ヘンドリックスもみんな27歳で亡くなっている。それで僕も、26歳になった時に、ここで自分も伝説を作らなければと勝手に思ったんです(笑)。ただミュージシャンは無理だから、小説を書こうと。その時点でロックの27クラブとは関係なくなっちゃってるんですけどね(笑)。2004年に「サージウスの死神」を書いて群像新人文学賞に投稿したら優秀作になりました。翌年に書籍化されて、でも、そこから迷路にはまりました。編集者も僕のバックボーンを知りたいから「作家では誰が好きか」って訊いてくるんですよ。僕がブコウスキーとかレイモンド・カーヴァー、ティム・オブライエンとかを挙げると、「じゃあ日本人作家は?」と訊かれる。僕はその時三島さんから遠ざかっていたから、この国にはいないなと思って。今思えば、さっきの椎名誠さんだったり、夢枕獏さんや京極夏彦さんなど、いろいろ挙げられたんですけど、純文学でデビューしてしまったから、そっちで答えなきゃいけない、という固定観念があったんでしょうね。もちろん村上春樹さんも読んでますが、ご本人が翻訳される海外作品のセレクションが好きで。それがカーヴァーやオブライエンですよね。
音楽なら外国のミュージシャンばかり聞いている人はいるけれど、小説、特に純文学の世界では珍しがられる。編集者も僕自身もプロデュースの方向性がつかめない微妙な空気の中で、僕は業界からフェイドアウトしていきました。
――その頃に東京に越してこられたんですか。
さすがに業界から消えたあとに越してくる意味はないですから、消える前に越してきていました。最初に住んだのは高田馬場でした。当時の編集者には「新人の本は面白いほど売れませんよ」と言われましたね。その通りでした。そうこうしているうちに物書きの仕事がなくなって。作家生活10周年記念と銘打って、記念作品を出されている作家さんは大勢がおられますが、すごいなと素直に思います。僕が10周年を迎えた時は原稿依頼ゼロで、ゴールデン街の近くで警備員をやっていましたから。
――働きながら小説を書いていたんですね。
ワーキングクラスの作家が好きだったから、きついけど楽しかったですよ。さっきいったようにブコウスキーとかカーヴァー、それにデニス・ジョンソンとかが好きでした。ルー・リードやローリングストーンズの音楽が聞こえてくるような世界観が好きだったんですよね。でも、そういう小説を書いていても日本ではニーズがないのでは、と気づいた。
いかに完成度を上げたところで、ニーズがなければ出口はないから、方向転換しようと思って、ゾンビ小説を書き始めたんです。それを持って編集者に相談しようと思った。でも仕事がないから、編集者に会う機会そのものがない。それで編集者に会うために文芸賞のパーティーに行きました。過去の受賞者には案内の葉書が来るので。ゾンビ小説はまだ書き上がっていなかったので、企画書を持っていきました。編集者が受賞者や他の作家と話し終えるまで隅のほうで待っていて、ほろ酔いになった編集者にようやく企画書を見せたら、「江戸川乱歩賞に応募してみませんか?」と言われて。一瞬「その手があったか!」と思いましたが、冷静に考えてみると一般公募の賞なんですよ。この時点で僕は戦力外通告なんだな、と認識しました。そこからやり直さなくちゃ駄目なんだ、と。でもあの時、進むべき方向を示してくださったことには本当に感謝しています。
そのパーティーの翌年の2015年に、乗代雄介さんが群像新人文学賞を受賞されたんですよね。今年、僕が山本周五郎賞、乗代さんが三島由紀夫賞を受賞して会見で一緒に並んだ時、ずいぶん遠回りをしたなあ、と思いました。遠回りというか、回ってもいなくて別のところに出てきてしまっているんですけど(笑)。
ところで文芸のパーティーって、売れている作家の前には編集者がずらーっと並んでいるんですよ。昔、僕が隅っこで別の作家と一緒に立っていたら、隣で彼が「ああいうふうに前に並ばれるようにならないと駄目だ」って言ったんです。まあそうだろうなと思ったんですが、ひと晩よく考えてみて、大事なのは編集者じゃなくて読者に並ばれることじゃないか、と思ったんですよね。そこで頭が切り替わりました。必死でやっているとユーザー目線、つまり読者目線がおろそかになるけれど、もっと並んでくれる人のことを考えてもいいんじゃないかって。そのためにもうちょっと自分なりの方法を探してみるか、と思うようになりました。お呼びじゃない場所って行きたくないけれど、行ってみて気づくこともありますよね。
――その時のゾンビ小説は書き上げたのですか。
書いたんですが未発表ですね。企画書を持っていった時点で700枚くらいあったんですよ。乱歩賞の規定は550枚までで、150枚も削るともう形が変わっちゃうから、突貫工事でまったく別の、550枚の枠に入るものを3か月程度で書いて応募しました。それが一次選考だけ通過して。一次通過すると誌面に名前が載るから、編集者の誰かが気づいて連絡してくるかなと思ったんですが何もない。まだ認識が甘かったんです。俺のことは誰も憶えていないし、そもそもみんな忙しいから、売れていない奴のことを考えている余裕もない。はじめて業界での自分の位置を正確に理解しました。だったらペンネームを変えてもう一回挑戦してみよう、と。それで書いたのが、『QJKJQ』でした。
――2016年に見事、『QJKJQ』で江戸川乱歩賞を受賞されましたよね。
装丁家の川名潤さんに手がけてもらった最初の本になったのですが、それ以後も装丁は川名さんにお願いしています。あの小説はすべてにおいてターニング・ポイントになりましたね。
――『サージウスの死神』は闇カジノにはまっていく青年が主人公でノワールの感触があるし、『QJKJQ』も『Ank: a mirroring ape』も『テスカトリポカ』も暴力は描かれるけれど品がある。純文学からエンタメへと、作風ががらっと変わったわけではないんですよね。
僕自身はストレートにパンチを放っているつもりです。海外の作品だとエンタメ性と文章の美しさが両立しているものがいろいろありますし。暴力描写もあるのに陰惨ではないですね、とはよく言われるんですけれど、思えば林田球さんの『ドロヘドロ』に教わった部分が大きいですね。スプラッターな描写がエグい漫画なんですが、どこか明るくて突き抜けている。新宿の百人町に住んでいた頃に熟読してました。バイオレンスを描くときの、ギリギリのさじ加減というのを教わった『ドロヘドロ』には感謝しています。あと、ローブロー・アート的な面白さも教えられました。
ノンフィクションと哲学書
――佐藤さんの小説は参考文献リストを見るのも面白いですよね。ノンフィクションもかなり読まれていますね。
ノンフィクションは好きですね。『シャドウ・ダイバー 深海に眠るUボートの謎を解き明かした男たち』とか。海外のノンフィクションって、こっちの頭が追いつかないようなすごい話がある。これは第二次世界大戦時のUボートが、沈んでいるはずのない場所で見つかった、という話。ここまでスケールが大きいと、人間ってすごいなって気持ちになりますね。松本清張さんの『日本の黒い霧』は下山事件や帝銀事件を追っていて、これもすごいなと思う。柴田哲孝さんの『下山事件 最後の証言 完全版』も必読書ですよね。
こういうノンフィクションを読むと、悲惨な話でも突き抜けたスケール感が得られたり、ひどい話だけどたしかに人が生きた物語を読んだ、と感じられます。
――『テスカトリポカ』では、古代アステカの生贄の儀式と現在の心臓売買の話が重なっていく。きっかけのひとつが、スコット・カーニーの『レッドマーケット 人体部品産業の真実』というノンフィクションだったそうですね。
麻薬とか犯罪系のものは資料としても趣味としてもよく読むんです。『シャドウ・ダイバー』は深海というまったく目の届かないところの世界を見せてくれましたが、『レッドマーケット』は臓器売買という、ニュースでなんとなくしか知らない世界を見せてくれた。臓器だけじゃなくて、毛髪の売買の話もあるんですよ。今は日本でもヘアドネーションなどがあるけれど、この世には死体の頭から毛髪をはぎ取って商品にするという、芥川の作品みたいなことが本当にある。
そういうことが書いてあるから、アングルが広がるんですよね。『テスカトリポカ』でも書きましたが、個人個人って生きている間は安く扱われて死んだ瞬間に値段が跳ね上がる。人にパーツとして価値をつけることが資本主義の怖さなんですよ。
――佐藤さんは資本主義とは何か、深く考えられていますよね。前にマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』の話もされていましたし。
ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス――資本主義と分裂症』という哲学書でも、資本主義が批判され、分析されています。
今は後期資本主義の時代で、資本主義がシステムの頂点に立った世界です。しかし資本主義はもう限界かもしれないのに、みんなその先のブラックホールに突っ込もうとしている。いや、もう入っているかもしれない。
そんな時代に何かを書くということは資本主義について考えることなんですよ。パーツとして扱われる身体や、現代の生贄のことを考える。魂のこととかダンスとしての肉体はどうなんだとか、いろいろ考えますね。
土方巽さんの弟子だった室伏鴻さんというダンサーがいるんですが、『室伏鴻集成』を読むと、やっぱり舞踏家って言葉が鋭いんですね。人は死ぬというけれど、死とは一体「何人称なんだ」、って。一人称とか二人称とか三人称とかあるけれど、誰が死ぬのか、この肉体に人称はあるのかって。そういうことを考える人はあまりいませんよね。名前は親や親戚に名づけられるものだけれど、でも名付けられる前から肉体はある、これはいったい何なのか。
ドゥルーズ+ガタリは、人が登録された身体として生産活動に参加させられるのが資本主義だというようなことを言っている。映画の「マトリックス」を観ずとも、現実の世界がもうああなっているんだな、と思いますね。僕らはものすごいスケールの思い込みの中で生きているのかもしれない。
僕は、最初は自分の居場所がないってことから社会の仕組みを考え始めて、そこから資本というか、人間とモノってことを考えるようになった。人間が人間って呼んでいるものは何なのかをフーコーは考えましたよね。存在とは何かを言い出したのはハイデガー。 いろいろ考えようとすると、やっぱりそうした哲学を知る作業が必要になってくる。
もし僕が大学を出てたら、哲学書を書こうとしたかもしれません。ところが実際には高卒なので、そういう人間が哲学書を書いても誰も読まないし、論文もやったことがないから書けない。だから小説って、僕にとって限られた選択なんですよ。そこは学歴のない人間でも思考と深く関わることのできる貴重な場なんですね。
『Ank: a mirroring ape』を書いていた頃は、「これは哲学書じゃないからな」って自分に言い聞かせていました。思弁だけで書かないようにって。読者はエンタメを期待して買ってくれるんだから、その要素がないと。そういうところで非常にもがいていましたね。何とか哲学とエンタメをブレンドして、ジェットコースターに乗っているような感覚を味わってもらいたい、大げさにいうとニーチェの本を一冊読んだような気持ちにさせたいって。自分もそれができたら楽しいし。映画でやろうとすると芸術映画になるんでしょうけれど、小説の中で、しかもバイオレンスも出てくる中でやったら、面白がる人がいるんじゃないか、というのが僕の基本スタイルかもしれません。
――それで見事にブレンドさせられているのだからすごいですよ。
どうなんですかね。だといいんですが。ところでフーコーの「エノンセ」って概念がありますよね。「言表」って訳されてるんですが。その考えでいうと、同じ言葉でも時代ごとに言葉が放射するものが変わるんですよね。分かりやすい例でいえば、コロナですよね。たとえば2019年に「コロナ」と聞けばたいていの人は太陽のコロナかビールの銘柄を思い浮かべていた。でも2020年以降、この言葉はまったく違うインパクトを持つようになっている。言葉って実は意味を持ったものではなく、穴のようなもので、時代によってそこから放たれるものが違うのかもしれない。時代によって、磁力で砂鉄の描く模様が変わるように、言葉は変わる。だから小説家は、文法学者が言うような意味とは別の見方をしなくてはいけないのかもしれませんよ。
――たしかに。
僕は、そのフーコーの考え方で作者というものも考えるんです。たとえばここにたまたま『カフカ短篇集』がありますけれど、フランツ・カフカという人がいて本ができたんじゃなくて、最初はプラハの保険会社で一生懸命働いていた無名の人間がいただけなんですよね。僕もそうだけどカフカだって、本を書く前は無名の、たくさんの知られざる声のひとつだったんです。それが本を書くことで、ここに、ホログラフィーのように作者のイメージが出現した(と、掲げた本の前の空間を指す)。僕も、『テスカトリポカ』って本があるから佐藤究というイメージが出来上がって、ふわーっとホログラムが浮かび上がっている。つまり僕の中では、"作者"っていうのはどう考えてもフィクションなんですよ。本当は無名の、名づけようのない声がコツコツ書いているんです。
でも資本主義では、浮かび上がったこのホログラムのほうにアイデンティティーを集中させて商品にしようとするんですよね。それがフィクションであるにもかかわらず、そこからの逸脱を許さない。本人とあまりにもイコールになっている。
だから、僕がインタビューで話していることはぜんぶ嘘ですよ。本の前にあるぼんやりしたホログラムみたいなものに合わせて僕も喋っているし、みなさんも合わせて聞いているだけなんですよ。
――ふふふ。
資本主義は「私とは誰か」という問いかけを許さないんです。フィクションであるホログラムに焦点を当てて主体化させて、そこからの逸脱を許さない。許すと労働させられないから。搾取できないから。税金払ってもらえないから。それだけのために、人は大きなものを譲り渡しているんです。生きるのがきつくなるのも分かりますよね。
これって政治よりも根が深いですよ。アイデンティティーの檻を作っていることが、資本主義リアリズム、マネージメント原理主義の根底にある。そのフォーマットによる刻印が、差別やいじめなどに繋がっている。
フーコーは、人間は今のようでなければいけないという必然性はないと言っている。人間は波打ち際に書いた文字が消されるように、いつか消える。人間という概念の話ですが。18世紀に人間と呼んでいたもの、19世紀に人間と呼んでいたものと、21世紀の人間というものは違う。市民という概念すら違うんですよね。『サージウスの死神』を書く前から、河村さんとそういう話をしていて、資本主義の問題を考え始めると、いろんなアングルで物事が見えてくるので、面白い話もできるようになるんです。作家が資本主義について考えるのって、オプションじゃなくて、創作の前提なんですよ。
いちばん紹介したかった本
――『QJKJQ』、『Ank: a mirroring ape』、『テスカトリポカ』の「鏡三部作」が、人間の営みについても考えさせる内容だったのは、そうしたベースがあるからだなと納得しました。
たぶんみなさんも無意識のうちに考えていることだと思います。
加速主義者っていますよね。資本主義がどんどん加速して、限界に達した時に資本主義を抜けられるだろうというのが加速主義の考え方。アクセラレーショニズムともいいますね。トランプ支持者とも親和性が高かったそうですが。でもたぶん、それでは僕らは闇を抜けられないと思うんです。
僕ら人間は入り口を間違えて、出られない迷路にすすんで入りこんでいるようなものなんですよ。加速主義者は加速した先にあるエグジットをテーマにしているけれど、僕はそもそもエントランスが違うんじゃないかって気がしています。世界も、肉体も、モノも、入り口が間違っているからループして人間は同じ間違いを繰り返している。
「鏡三部作」では、エグジットを提示するのではなく、エントランスが違うということ、オルタナティヴな入り口があるんじゃないかって、自分自身でも探してみたんです。人間は間違ったエントランスから入ってぐるぐる回っているような気がします。だから今日、これだけは紹介しなければという本があって......。
――おお、ぜひ。
『Ank: a mirroring ape』を書く時に資料にした、高野陽太郎さんの『鏡映反転 紀元前からの難問を解く』です。
鏡がどうして左右反転して映るのかって、決着ついてないんですって。本当はもっと複雑な現象で、ちゃんとした定説がないそうです。これは、もう一回基本に立ち戻って、この難問を考えてみようっていう本です。
鏡の前で右手を挙げたら、左手が挙がっているように見えますよね。でも、高野さんが学生に「鏡の前で手を挙げて左右が反転していると思いますか?」とアンケートを取ったら、そう思っていない人が結構いるんですよ。びっくりしますが、これが結構バラバラなんです。人は空間認識すら統一されていないんじゃないかって話ですよ。
これもひとつのエントランスの話ですよね。思わぬところに落とし穴がある。たとえば、学生たちに鏡文字を見せると、日本語だと鏡文字だと分かるけれどロシア語だと反転していることが分からない。当たり前の話ですけれど、知らないものについては反転しているかどうか気づかないんです。そう考えると、人間って普段から、何かあべこべになっているものを揺るがない現実だととらえている可能性はゼロじゃないですよね。それって認知のレベルで、思考とか主義主張より前の話です。
『Ank: a mirroring ape』ではそういう次元に触れたかったんです。人は毎日、ネットでもいろんな議論をしてますけど、それ以前に、人間って信じられないような、知ればずっこけてしまうような見落としをしている気がする。学者さんがそんな話をすると「変な人だな」と思われてアカデミックな世界の中で仕事がしづらくなるのかもしれませんが、その点、作家はそういうことをフィクションで書けるというのは強みであると同時に、それが役割でもある。僕が書いているのはそういうことなんです。だって見落としが分かれば何かが変わるかもしれないじゃないですか。見落としたままやれデジタルだ、バーチャルだと言っているのは危険ですよ。
――認知のレベルで落とし穴に気づけたら、日常生活も一変しますね。
たとえば長い廊下を歩いていて、その途中で鏡が用意されていたとします。その前に立った時、自分がこれまで歩いてきて、ずっと遠くの背後にある奥行きが、自分の前に見えている。見えないはずの後ろが、前に見える。でもそのときの前後の反転ってあまり意識されていない。ベルクソンがいうところの「持続」の空間がひっくり返されているのに、そのことに気づいていない。
「前」って、単に進行方向のことだと思われがちだけど、左右などの他の方向とあきらかに違うんですよね。見える見えないを決めている方向なんですよ。
『テスカトリポカ』でコシモが「じかんがゆうひにしずんでいる」というのは、彼は文明に染まっていないから、ベルクソンのいう「持続」の感覚を認識しているという設定なんです。認識のありかたとしてはコシモのほうが正しいと思うんですが、人間は、気持ちよく感じる認識のほうに騙されたがる。
表と裏っていう概念がありますよね。表と裏は同時に見ることができない。僕が今、こうして本を持って表紙を見ている時、みなさんには裏しか見えていない。それを、ひとつの空間でまったく同じものを見ていると思い込むのは、あきらかにカテゴリーエラーを起こしているんです。そういうところで人は永遠に答えの出ないバトルを繰り返している気がする。
――めちゃくちゃ興味深いです。
『QJKJQ』を書くにあたって読んだ『脳はすすんでだまされたがる マジックが解き明かす錯覚の不思議』というノンフィクションがあって、これはアメリカの2人の神経科学者が、人間の認知の仕組みを探るためにマジックの不思議に着目して、やがてみずからもマジシャンとしてデビューする話でもあるんです。2人はアカデミックではないエンターテインメントの現場で長年培われた、人の認知を操作するいろんな方法を、マジシャンに教わっていく。「意識の手品シンポジウム」という大会をラスベガスで開催したエピソードは面白いですよ。ステージに立ってマジックを披露するのはトップクラスのマジシャンで、一見普通のショーのように映るんですが、その日の観客は全員が一流の科学者なんです(笑)。マジシャンと科学者、人間の認知や注意について朝から晩まで考えている者同士が、マジックでだませるか、だまされないかで勝負する。さすがに200人の科学者がいたら、誰かが見抜くだろうと思いますよね。ところが誰も見抜けない。まんまとマジシャンにだまされる。
エンターテイナーはすごいってことですよ(笑)。たとえば僕が今、こうして右手を挙げて円を描いたら、みんなそこを見ますよね。マジシャンはその間に左手で仕掛けを仕込む。人は円運動に目を奪われるんですって。ミスディレクションってそういうことなんだなと思って。
『QJKJQ』も円運動がふたつ入っていればいいかなと思ってタイトルにQをふたつ使って、しかもKを挟んで左右で鏡像になるように配置してみたんです。いまだに僕の文庫でいちばん売れているのはこの本だから、効果があるのかもしれないですね(笑)。
創作と日常
――そういえば、コーマック・マッカーシーの名前が出てきてませんでしたね。佐藤さん、お好きですよね?
ああ、もうマッカーシーが好きだといろんな媒体で言っているので......。いちばん好きなのは『ブラッド・メリディアン』ですね。『血と暴力の国』も好きですし。
――それと、お友達である丸山ゴンザレスさんの本もいろいろお読みになっているのではないかと。
本棚にゴンさんや村田らむさんのコーナーがありますよ。今日紹介するなら、丸山ゴンザレスさんの『旅の賢人たちがつくった海外グルメ旅最強ナビ』かな。これ、2020年12月に出てるんですよ。なぜこのパンデミックの時期に海外旅行ガイドを出すのかっていうと、以前と同じように人でごった返す屋台文化を気軽に楽しめない今、かつてどういう屋台文化があったのかを残しておく必要があった、と。貴重な記録ですよね。下手したらこの先、もう元には戻らない可能性がある。ビフォアコロナの世界がどうだったのか、目立つ部分の正史は残るだろうけれど、路地裏文化の記録って残らないかもしれない。僕自身、日本がGHQの占領下だった1946年を舞台にした短編を書いた時に、闇市のうどんの値段がいくらか調べようとしたら、全然わからなかった経験があります。1949年くらいからそうしたものの値段の記録が出てくるようになる。そう考えると、あの時代、あの路地裏で食べられた料理の情報を記しておくという姿勢には、歴史的な価値があります。
――佐藤さんは今、毎日どんな感じで過ごされているのでしょう。
先日、ある編集者に「原稿を書かない日もあります」って言ったら、にらまれたんですけど(笑)。だいたいは、朝起きて、コーヒー豆を自分で挽いて、コーヒー淹れて、飲んで。最近は、三島由紀夫さんについて調べる仕事があるので、自分の中で勝手に澁澤龍彦さんにこの仕事のプロデューサーをお願いして(笑)、毎朝澁澤さんの『日本芸術論集成』を少しずつ読んでいます。で、行ける時は午前中に映画館に行きますね。
――映画もお好きなんですね。好きな監督はいますか。
デイヴィッド・リンチが好きですね。『デイヴィッド・リンチ――映画作家が自身を語る』という本も読みました。それとは別に「ナイト・ピープル」いうリンチのドキュメンタリーDVDを観た時は衝撃を受けましたね。リンチって変わり者で、いかにも撮影現場で癇癪を起こしたりしそうな監督のイメージがあるじゃないですか。でも現場で怒鳴ったりとか、そういうパワハラ的な行為がまったくないんです。スタッフも楽しそうで、みんな「また彼と仕事をしたい」って言う。役者たちも同じで、リンチ作品は謎だらけだから、いったい何を撮っているのか分からなくて、リンチの夢の中に入っている感覚なんだけど、実はこういうことがやりたかったって言うんですね。
異常なものって、異常なテンションで作ると思われがちだけど、全然そうじゃないんですよ。「狂気の世界を作るのに必要なものは?」と訊かれて、リンチは「常識」と答える。「そりゃそうだな」と思いましたね。僕もバイオレンス描写は淡々とアングルや効果を考えながら、ペンキ塗りの技術に近い感じで書いていますから。いや、ペンキ塗りというよりも、音楽的な感覚かな。コシモとパブロがカヌーに乗るシーンのほうが、バイオレンス描写よりも準備や執筆に時間がかかりましたね。静けさの中に張り詰めた情感が求められるシーンは、本当に体力を消耗します。
――運動はしてますか。ご自身も身体を鍛えるのがお好きなのではないかと思って。
エアロバイクは家にありますよ。あとは、軽いダンベルを両手に持って、サイドレイズという腕を左右に開く運動と、シュラッグといって肩をすくめる運動をしてますね。僕が猫背だということもあるんですけれど、この仕事をしていると肩こりがひどくなって、電気が走るようなしびれを感じる時があるんです。肩こり防止策として選んだ去年の標語は「つべこべ言わずにサイドレイズ」でした。サイドレイズとシュラッグはびっくりするくらい効果がありますよ。あくまでも個人の感想ですが(笑)。
それと、そうそう。ジムに行けばローイングという、広背筋を鍛える器具があるんです。ボートを漕ぐような運動ですね。今はステイホームの状況だからなかなかジムに行ってローイングができない。このローイングのかわりになる動きを考えているうちに、敬遠されがちなスクワットと、つい怠りがちな股関節のストレッチをまとめてこなすエクササイズに行き着いたんです。僕は気づいてしまったんですよ、コマネチが完成されたワークアウトだってことに(笑)。これを朝50回、ゆっくりやります。錯覚なんじゃないかと思うなら、あとで一人で鏡の前で確認してください。完璧ですから。いいことに気づいたのにどこにも出せずにいたので、ここで言っておきます(笑)。
――あとで一人でこっそりやってみます(笑)。最後に今後のご予定を教えてください。さきほど、三島由紀夫について書くために澁澤龍彦を読んでいるとおっしゃっていましたね。
「三島由紀夫の亡霊を斬ってください」っていうものすごい依頼が原因なんですが......。僕は三島さんのファンですし、世界最高の作家の一人ですので、無理ですよ、と何度もお断りしたんです。まだどうなるかわかりません。
ほかに、小泉八雲先生についての話を依頼されていて。八雲先生のTシャツにも関わったし、小泉家ともご縁ができて、もちろん手すさびの仕事はできないので、ちょっと時間くださいって相談をしているんですけれど。八雲先生も膨大な資料があって、これが面白いんです。
八雲先生の出生名は、ご存知のようにパトリック・ラフカディオ・ハーンなんですが、ラフカディオ・ハーンと節子夫人は、明治時代のジョン・レノンとオノ・ヨーコだったんじゃないかと思うんですよ。ヨーコの詩にインスパイアされてジョンが「イマジン」を仕上げたように、節子夫人の話したことをハーンが聞いて、『怪談』という世界文学に仕上げた。ジョンもハーンもイギリスとアイルランドにルーツをたどることができますが、日本人女性と出会って傑作を作ったという点に、共通性があります。
――小泉案件も三島案件も、どちらも読者としてはすごく楽しみですが、大変なお仕事ですね。
いや、なるべく働きたくないですね......。原稿仕事は目が疲れる。だらだらしていたいから、スマホを拒否してガラケーのままLINEもやらずにいますけれど、そういうものを使わないといけないっていうのは資本主義のまやかしですよ。まあ、Macユーザーがzoomでそんな話をしているのもおかしいですけどね。
ワインだって2か月じゃ出荷できないし、時間をかければそれだけヴィンテージになる。僕もゆっくりと、時の流れに耐えるものをやっていこうかなと思っています。これがサボるための最高の言い訳になる(笑)。