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佐藤究さんの読んできた本たち 洞窟の中で光を探すように(前編)

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プロレス好きの子供

――まず、『テスカトリポカ』での山本周五郎賞受賞、そしてこの記事の掲載時には結果が発表になっていますが、直木賞のノミネートおめでとうございます。お忙しくされていると思いますが......。

 僕は小説以外の雑務が多いんですよ。個人的にTシャツのプロデュースに関わってまして。丸山ゴンザレスさんと一緒に制作協力した〈文豪レジェンドシリーズ〉の第二弾「小泉八雲Tシャツ」が、ちょうど昨日(6月10日)発売になったところです。メーカーはハードコアチョコレートさんですね。シリーズの第一弾は「江戸川乱歩Tシャツ」だったんですけれど。 山本周五郎賞の受賞が決定した前後は、日本推理作家協会の雑務をこなしていましたし。

――そんなことが(笑)。今日はよろしくお願いします。いつも、いちばん古い読書の記憶からおうかがいしています。

 いちばん古いのはこれかなと思って(と、モニター越しに本を見せる)。佐藤さとるさんの『宇宙からきたかんづめ』です。僕が持っているのはフォア文庫版で、村上勉さんがイラストを描いています。児童向けのSFで、この絵が好きなんですよね。引っ越しを重ねているうちに失くしちゃったので、これはしばらく前にネットの古書で買いました。

――佐藤さとるさんと村上勉さんといえば『だれも知らない小さな国』などの黄金コンビですよね。

 この『宇宙からきたかんづめ』は、少年がスーパーマーケットの棚にある奇妙なパイナップルの缶詰を見つけるところから始まります。缶の中から声が聞こえてくるんですよ。少年は缶詰を買って帰るんですが、姿の見えない謎の声は、自分の知っているとても風変わりなエピソードを少年に聞かせてくれるんです。いつ頃読んだのかあまり記憶がないんですけれど、小学校低学年であることは間違いないと思います。

――どこで見つけたんですか。

 どこだったかな。僕は1977年生まれなんですが、小学校の図書室に児童向けSFがいっぱいあった記憶があります。絵本だけど中身はSFという。ただ、この『宇宙から来たかんづめ』が家にあったということは、母親に買ってもらったんでしょうね。母親は子供に本を読み聞かせるということはあまりしなかったけれど、本は買ってくれました。

 昔、福岡の野間大池の近くにアピロスというダイエー系のスーパーがあって、その地下に食料品店なんかと並んで本屋があったんです。そこで夏目漱石なんかを買ってもらいました。児童向けの、ひらがなが多い文庫なんですが。でも『キン肉マン』の単行本を買ってもらおうとすると「駄目だ」と言われる(笑)。なかなか漫画を買ってもらえなかった。あの頃、そういう家は多かったんじゃないですか。僕の子供の頃は「週刊少年ジャンプ」が最強だった時代で、『北斗の拳』や『キン肉マン』、『キャプテン翼』とかが連載されていたんですけれど。『聖闘士星矢』、『魁!!男塾』もあって、あと『ジョジョの奇妙な冒険』ですよね。それでも僕のまわりでは、漫画の単行本に関しては、わりとリベラルな、お金に余裕のある家の子が買ってもらえる商品という感じでした。それをリベラルと呼ぶのかは、まあ僕も疑問なのですが(笑)。

 僕は福岡県福岡市の生まれで、父親はペンキ職人で、そもそも経済的にあまり余裕がなかったんです。漫画の単行本はどうしても自分の小遣いでは全巻コンプリートできないから、買えるときは欲しい巻をジャケ買いしていました。『キン肉マン』ならバッファローマンという好きなキャラが表紙になっている巻だけ買ったりして。ただ振り返ってみると、どの超人がいちばん好きだったのか、自分でも記憶が曖昧ですね。いずれにしても買えなかった過去の内容は自分で想像するしかなかったので、おかげで想像力が培われた気がします(笑)。

 「週刊少年ジャンプ」は、毎週買っている友人に頼んで見せてもらっていました。朝、学校に一緒に行くときに家に持ってきてもらって、それに目を通したのちに、ようやく登校するわけです。持っていくと没収されますから。「まだ読んでるから先に行っていいよ」と友人に言って、僕だけ遅刻して怒られたりしていました。そういえばあの頃、『ジョジョの奇妙な冒険』の熱心なファンなんてほとんどいなかったな。第一部の愛読者は僕を入れてクラスに2人とか3人でしたよ。僕にはあの絵が刺さったんですよね。第二部が始まると、自分も波紋なら頑張ればできるんじゃないかと思うようになって、学校でコップを手にして真似したりしてました。結果、コップを床に落とすんですが、オールドファンなら理解できるはず(笑)。神砂嵐とか、そのあとのスタンドとかは最初から不可能だとわかるんですけれどね。

 ファミコンも買ってもらえなかったから、友人の家で借りて遊んでました。もちろんRPG のクリアなんてできませんよ。「ドラゴンクエスト」をセーブして、次の週に行くとパスワードをまちがえていてもう通用しなくなっているっていう。メカ生体「ゾイド」の組み立てキットに関しても、ゼンマイ仕掛けの安いのは買ってもらえたけれど、モーター駆動の高価なやつはめったに買ってもらえなくて、人脈を辿って持っている子の家に行って見せてもらうんです。ゾイドゴジュラスとか。大げさにいうと、そうやって、格差社会を生きる術を身に着けつつサバイバルしてきました(笑)。

 しばらく前ですが、弟と中野ブロードウェイに行ったら、当時のゾイドにプレミアがついて10万円とかになっているんですよ。それを見て弟がぽつりと「昔も買えねえ、今も買えねえ」といったんです。僕はいたく感心して「お前いいこというなあ」、と。あれは現代を象徴する名言でしたね。

――おうちでは、テレビでアニメなどは見られましたか。

 チャンネル権に関しては当然、父親が最強なんです。父親が「報道特集」を見ていると、「親父、どっか行かねーかなー」と思って。いや、「報道特集」もいい番組なんですが、子供にはわかりませんよね。見たい番組はぜんぜん噛み合わないけれど、唯一、父親と弟と3人そろって熱心に見ていたのが、土曜日のゴールデンタイムに放送されていた「全日本プロレス中継」でした。

――放課後は外で遊んだり?

 基本は外で遊んで、体力が落ちてくるとゲーム機を持ってる友人の家に行ってました。小学生の時に彼の家で「ドンキーコング」を見た時は衝撃でしたよ。ゲーセンでしか見られない光景だったから。

――プロレスごっこなんかもしてました?

 本当のプロレスファン同士は、そんなにプロレスごっこをやらないと思うんですよ。プロレスをやるのは、選ばれし本物のレスラーなわけで、神聖なものですから。まあ心底レスラーになりたい者同士だったらちょっと違いますけど。技を理解するためにプロレス好きの仲間とかけ合ったりはしましたね。当時は蝶野正洋のSTF(ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック)が流行って、あれはめちゃくちゃ痛い。この技はやばいなと思ったりしてましたよ。

 中学校では水泳部だったんですけれど、親しかった柔道部に行って、無人の壁に向かってドロップキックの練習をさせてもらったりしていたんです。逆に柔道部の友人には「暑いから俺もプールに入らせてくれ」と真夏日に言われたりして。

――運動は得意でしたか。

 体を動かすのは嫌いではないですが、タイプ的に団体競技などには向いていないですね。チームプレイになるとサボろうとする。体育会系というよりは、博多の山猿系でしたね(笑)。今でも物書きの友達なんてほとんどいないですよ。パワーリフター、バンドマン、あと空手家。ごつい人が多いな。考えてみれば丸山ゴンザレスさんは物書きの友人ですが、ご存知の通りごついですよね(笑)。

違うライフを求める読書

――勉強は好きでしたか。

 勉強というか、まず学校が大嫌いだったんです。狭い場所にみんな集まって揃って何かやるというのが退屈で駄目でした。サボって家にいると父親が怖いから学校に行っていただけですよ。小学6年生の時に担任の先生に立たされて、「家に帰りなさい」って怒鳴られたんです。何でそうなったのか思い出せませんが、生意気だったんでしょうね。でもそこで帰ったら、今度は父親に怒られるのが怖いから帰れなくて。じっと立っていたんです。その日の放課後、クラスの友人が集まってきて、「どうして帰らなかったんだ? お前が帰ったら俺たちも帰るつもりだったのに」と言われたんです。胸が熱くなりかけたんですが、やっぱり帰らなくてよかったと思いましたね。騒ぎが大きくなると、結局また怒られるから。何をやっても怒られる(笑)。まあ、友人には恵まれました。

――学校ではどんなタイプでしたか。リーダータイプとか参謀タイプとか。

 自分ではよくわからないんですが。そういえば、暴力団員の息子じゃないかと周囲に思われていたんです。父親に「お前はこれが似合う」って、ガッと剃り込みを入れられていたんですよね。高校までその髪型だったんですよ。そりゃ学校で怒られますよね。僕の意思ではなかったんですが。

 振り返ると、「全日本プロレス中継」にはじめてザ・ロード・ウォリアーズが出てきた瞬間、「この世には親父より強い奴がいるらしい」と思えたことは大きかったですね。衝撃的な感覚でした。小さな世界が急に広がって、あの感覚の延長で今ここにいる気がします。『テスカトリポカ』を書いている間も、ホークとアニマル、あとマネージャーのポール・エラリングの3人が写っている本のページを拡大コピーして、仕事場の壁に貼ってましたし。

――以前別の媒体でお話をうかがった時、ペンキ塗りの仕事を手伝っていた時に、本を読もうと思った、とおっしゃっていましたね。

 消去法で考えたんです。現場で会う大人たちがやっていないことをやると違うライフが待っているんじゃないか、って。昼休みに見ていると、みんな漫画雑誌を読んだり、単純に昼寝したりしていて、誰も本読んでねーなって。じゃあ俺は小説を読もう、と。小説って、いろんな人の人生に触れられるんですよね。やがて複数のアングルで物事を眺められるようになる。

――どんな本を読んだのでしょう。

 こう言っておきながら、どんな本と言われると、すぐに出てこないんですけれど(笑)。えっと、中学の時はヘルマン・ヘッセのヘビーユーザーでした。大人になってからの知人に、10代の読書について「太宰に行くかヘッセに行くかの二択だよ」と言った人がいたんですけれど、僕は国語の教科書か何かで紹介されていた『車輪の下』を、太宰や芥川の作品より身近に感じたんですよね。主人公が学校嫌いのアウトサイダーなところに惹かれたのかな。それからせっせと新潮文庫で『デミアン』や『荒野のおおかみ』、『シッダールタ』に『知と愛』なども読みました。内容はおぼろげだけど、『デミアン』は格好よかった印象があります。

――教科書に載っているもの以外は、読む本はどう選んでいったのですか。

 自分の本を書店のいい場所で展開して頂いている今、あんまりこういうことを言うと差しさわりがあるんですが......。当時は本屋さんで平積みになっている本には目もくれず、店の一番奥の、誰も読まないような本を選んでいました。

 それで読んだのが、まず、チェスタトンの『木曜の男』ですね。同じイギリスでもシャーロック・ホームズとは違う。こういうのもありなんだと衝撃でした。これを読むと、ビートルズのアルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」に入っている「アイ・アム・ザ・ウォルラス」っていう、サイケな感じだけどどこかクラシックな曲が浮かびますね。

 もう一冊が、アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』。こっちはビートルズでいうと「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」、交響楽団を使って高揚して終わっていくあの曲のラストと重なりますね。

――2作とも超のつく名作ですよね。それを選ぶなんて、素晴らしい嗅覚。

 どこにも居場所がなくて、ある種の圧力をかけられると、人は必要なものを嗅ぎ分けるのかもしれないですね。背伸びして何か学ぼうというのではなく、洞窟の中で光を探すような気持ちでしたから。

 よく憶えていないんですが、『幼年期の終り』は中学時代に塾に通っていた時に見つけたんじゃないかな。平和町のアパートを出て、平尾という駅から電車に乗って、大橋駅で降りて、駅の本屋に3時間くらいいて、塾に行かずに蕎麦を食って帰っていたんです。そこの塾は家に電話はしないという、素晴らしいところだったので。

――サボっても親にばれない(笑)。

 その後、その塾はやめちゃったんですけれど。学校サボって近所の霊園の林の中で寝っ転がって読んだのは福武文庫の『チェーホフ短篇集』です。主人公の医師が精神病棟に閉じ込められてしまう「六号室」なんかを読みながら、暗い気分になっていました。読んだら「俺も一旗揚げてやるぜ」って気持ちになれるような明るい本は読んでなかった。

 チェーホフも国語の参考書で紹介されていたんです。何ていうんですかね、メインの教科書とは別にあるやつ。資料集でしたっけ。たぶん〈ロシア帝国の闇を描いた〉といったような紹介文をそこで読んで、これは俺に合いそうだなと思ったんでしょうね。で、その本が本屋の隅のほうに置いてあったりする。そうした本を読むと、巻末の解説にまた別の読んだことのない本の名前が出てきて、それを芋づる式に読んでいったのかな。

――高校は地元の学校に進学したのですか。

 はい。公立に落ちて、私立の大濠高校という男子校に行ったんです(現在は共学)。学校嫌いなのに、学費で親には迷惑をかけました。3年間帰宅部だったんですが、外でちょっとだけ空手を習ったりして。高校は図書室が充実してたのを憶えていますね。

――どんなものを読んだか憶えていますか。

 確実に高校時代に読んだといえるのは椎名誠さんの『長く素晴らしく憂鬱な一日』です。ただ図書室の蔵書ではなくて、本屋で買った角川文庫ですけど(笑)。椎名さんの「あやしい探検隊」シリーズも好きだったんですが、これはまた違った味わいの、ダークな感じが出ているのがよかった。

 私小説風の作品で、語り手は新宿御苑の近くのマンションに仕事場を持っているんです。ある雨の日、どこかのビルの屋上の給水タンクから腐乱死体が出てきたという話を思い出して想像をめぐらし、このビルの給水タンクにも何かあるかもしれないと考えて、ちょうどやってきた編集者をしたがえて、雨の中屋上に行く。

 これを読んで、物書きは都会のビルに閉じこもってじめじめ書くイメージを持ちました。

――学生の頃、自分で文章を書いたりはしなかったのですか。

 17歳の時に、カフカの『城』みたいなものを書こうとして挫折しました。あの時は、ガチャンと音を立ててゲートが閉じられた感覚がありました。あやふやな感じではなく、はっきりとギロチンのように壁が落ちてきて終わった気がしたんです。書けないもんだなと思いました。

大学には行かないと選択

――大学は嫌だからと進学しなかったそうですね。

 椅子に座って黒板見るだけで気分が下がるのに、そんな奴が大学行ってもしょうがないと思ったんですよ。ただ今思えば、学業というのは、習いたい科目とか、教わりたい先生を自分で見つけるものなんですよね。つまりは、教わりたい人間のいるところに行く。そういう選択をすれば学ぶことも楽しいと思います。僕の場合、学校ではそれを見つけられなかったんでしょうね。

――卒業後はお父さんと一緒に働いたのですか。

 父親が〈有限会社サトー・ペイント〉を作って人手を必要としていたし、僕も独立しようにも金がなかったので、とりあえずそこである程度の技を身に着けておくかと思いまして。

 フルタイムで働くようになったら、土日だけ手伝っていた時とは違う世界が見えました。

 とび職人のハートの強さもすごかったですね。地上30mなんて僕は足がすくむんですけれど、彼らは安全帯もつけないでスタスタ足場を歩いて行く。それがすごいことだとも思っていない。工事現場もなかなかいい世界だなと思いながら、月給もらって押し入れに放り込んでました。でも、ずっとそこにいたいとは思わなかった。

――〈サトー・ペイント〉にはどれくらいいたんですか。

 たしか8か月で辞めました。父親と朝からずっと、家に帰っても一緒にいるのはもう限界でしたね。その頃、お金を使う暇もなくて手元に貯まっていたから、のちに地元の大学で空手部の主将になる友人と一緒に、ゴム製のカヤックを買いに行ったんです。空気を入れて膨らませるカヤックですね。

 カヌーイストの野田知佑さんの『北極海へ』が好きだったんですよ。この単行本の新装版は僕が持っている中でも最も美しい装丁の本のひとつ。自分も乗ってみたいけれどカヌーは高いから無理だなと思っていたら、アウトドア雑誌に6万円くらいのゴムのカヤックが紹介されていて、「これ買えるんじゃねえか」と。チェコのグモテックス社のヘリオスというカヤックでした。アウトドアショップに行ったら展示品一点限りで売っていたので、すぐ購入して、友人と担いで帰って、筑後川に持って行って乗りました。まあ、息が合わないから当然、転覆するんですけれど。

 野田さんの本を読んだり、自分でも漕いだりして、カヌーの素晴らしさや、夜明けの水面を漕ぎ進む神秘的な感覚を知っていたので、それが『テスカトリポカ』でコシモとパブロがカヌーに乗る場面に繋がったと思います。あの場面が好きだという感想をよく言われます。

――お父さんの会社を辞めた後はどうされたんですか。

 博多駅で新幹線に荷物を積む仕事をやりました。車内販売のワゴンに缶ジュースとかをセットして、地下基地からエレベーターでホームまで上げるんです。異なる新幹線のダイヤを担当している同僚とは、朝から晩までひたすらすれ違うだけなんですが、ある同僚のジーンズの後ろのポケットに、いつも『ハックルベリー・フィンの冒険』の文庫本が挟んであるんですよ。キャップ被って、ジーンズのポケットに文庫本を挟んで肉体労働しているのって格好いいじゃないですか。少なくとも工事現場にはいなかった。そして1年くらいするとジーンズと一緒に本もどんどんヴィンテージ化していくんです(笑)。僕も長く続けるつもりはなかったけれど、彼が僕より先に辞める日が来たので、「その本面白かったか?」って訊いたんです。彼は一瞬考えてから、ぱっとポケットを見て「あっ、忘れてた」って(笑)。

――1年間気づかなかったってことですか?

 でしょうね。作業用のジーンズなので、仕事が終わると脱いでロッカーに入れますから、家で気づくこともない。たしかに読んだ形跡はなかったな。ジーンズと文庫本が一体化してましたからね。いつかは俺もあんなふうに愛読される文庫本を書きたいって思っていたんですけれどね。

詩人・河村悟さんとの出会い

――19歳のときに、大事な出会いがあったとか。

 詩人の河村悟さんですね。あれも衝撃的でした。本物の詩人なんかもういない、いるわけがないと、なぜか上目線で僕は周囲に豪語していましたから(笑)。河村さんは学生運動の元活動家で、ある大学で全共闘の議長代行をやっていた人です。コピーライターを経て詩人になって、僕が会ったときはトランクひとつで友人の家を泊まり歩いて、ようするに全国を放浪していました。あくまでも当時ですけれど。いろんな舞踏家とも交流があって、実際に会っていた暗黒舞踏家・土方巽の話をよく聞かせてもらいました。

 土方巽の代表的な著書に『病める舞姫』があって、僕はこれを日本語で書かれた書物の最高峰のひとつだと思っているんですが、まあ、とにかくよくわからない本なんです。それもそのはずで、テクストとして読むためだけの本じゃなくて、舞踏論ですから。肉体の謎が暗号のようにしてそこに書かれている。

 河村さんはその難解な『病める舞姫』論として、『肉体のアパリシオン ――かたちになりきれぬものの出現と消失――』を書いて、2002年に刊行したんですけれど、手書きの原稿をキーボードでデータ入力する作業を僕も手伝ったんですよ。四百字詰め原稿用紙で完成した論文とひたすら向き合う中で、少しだけ「書くこと」の秘密に近づけた気がしました。

 河村さんからは、本当にいろんな話を聞きました。カフカ、ベンヤミンからグノーシス主義まで。こういうと、何だかこのインタビューの最初に紹介した『宇宙からきたかんづめ』みたいですが(笑)。話を聞くうちに、60年代の三島由紀夫がいかにスター的な存在だったのかも知りました。

――三島由紀夫の印象が変わったわけですか。

 それまでは漠然と読んでいただけでしたが、話を聞いてからは見えてくるものが違ってきました。重みが分かったというか。いうまでもなく、三島さんの存在は全共闘とは真逆ですよね。でも河村さんによれば、あの人は若者を茶化すようなことはしなかった、と。大人って歳を取っていくうちに、真剣に若者と向き合わなくなるじゃないですか。「まだ青いな」とか「今にわかる」とか適当なことをいって、のらりくらり保身を計ろうとする。でもあの当時の三島さんは若者を茶化さず、常に緊張感を持ちながら相手になっていた数少ない大人だったそうです。そうと知って三島作品を読むと、ずいぶん違うんですよ。

 そうだ、いきなりですが、僕は2013年に河村さんの本を作ったんです(と、モニター越しに四角いものを掲げる)。『純粋思考物体』っていうタイトルで、限定5部なんですけれど。

――本? それ、革製の小さなトランクですよね。

 装幀がヴィンテージのトランクなんです。マルセル・デュシャンに「グリーンボックス」という作品がありますよね。コンセプト的にはあの方向です。トランク本体にステンシルを使ってスプレーでロゴを入れて、開けるとまず暗室で現像した河村さんの写真作品が納めてあるんですが、写真はトランクごとに違うものが入っています。それと、僕が書いた解説書みたいなものがあって、オーダーしてカットしてもらったドイツ製のガラス板があります。表面には河村さんの足形が押してあります。「詩人は大地を踏まない足を持っている」という河村さんの言葉があるので、だったら足形を取ろうと思って。文字を印刷した紙は製本せずに、上下をガラス板で挟み込んで、さらにそれを布で包んで、さらに全体を皮ひもで結んであります。

――ああ、ページの真ん中に数行だけ書かれてありますね。

 綴じていないベルギー製の便箋にアフォリズムの形式で言葉が書かれています。今みたいに数行で終わる章もあれば、数ページにわたって続く章もあります。たとえば「97」の番号を印字した紙に書かれているアフォリズムは、次のようなものです。

〈ミッシェル・セールによれば、船乗りは海を走っているのではなく、跳んでいるのだという。だから、船乗りは大地に着地することが下手なのだ。歩くことが不器用なのだ。詩人もまた、大地を踏まない足をもっている。その片足は天国に置いてきた。したがって詩人は大地に一本足でしか立つことができない。かれにとって歩くことは、それゆえ、跳ぶことなのだ。詩人は船乗りの子供である。〉

 トランクを装丁に用いたこの作品に関わることによって、本にはいろんな形があるんだなと実感しました。カフカに「鳥かごが鳥を探しに行った」という言葉がありますが、最初は鳥かごの中に分厚いテクストを入れようかと思ったんですよ。でも、それだとテクストを取り出す方法がない(笑)。

――2013年というと、江戸川乱歩賞を受賞するちょっと前の頃に、そういうことされていたんですね。

 僕はこういう物づくりが好きなんですよ。

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