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「行く、行った、行ってしまった」書評 壁のあった街で問う 国境とは

評者: 温又柔 / 朝⽇新聞掲載:2021年09月04日
行く、行った、行ってしまった (エクス・リブリス) 著者:ジェニー・エルペンベック 出版社:白水社 ジャンル:小説

ISBN: 9784560090688
発売⽇: 2021/07/16
サイズ: 20cm/353p

「行く、行った、行ってしまった」 [著]ジェニー・エルペンベック

 ベルリンに暮らすリヒャルトは定年退官したばかりの名誉教授。専門は古典文献学だ。いわば「成功と呼ばれるもの」はほぼすべて手に入れて、あとは余生を過ごすという段階にある。妻は他界し、孫や子どもはいない。かつては若い愛人もいたが、後味の悪い別れから既に何年も経っている。
 「これから一日中誰とも話さずひとりで過ごすとなったら、正気を失わないよう気をつけなければ」と考えていた。「墓までの道のりはずっと、頭のなかの欲望にしたがう。思索。読書」
 しかし、そうはならなかった。きっかけは、アレクサンダー広場にあったプラカードだ。
 「我々は目に見える存在になる」
 祖国を追われ命からがらベルリンに辿(たど)り着いた難民たちの境遇や、彼らの一人ひとりが生きざるを得ない現実の過酷さは、リヒャルトの「頭のなか」に収まる膨大な知識を次々と無効化する。
 流れ着いた者らとの交流は、1990年に「突然――一晩のうちに――別の国の市民になった」リヒャルト自身の記憶をも静かに揺さぶる。あの年、リヒャルトの頭上で地図は描き替えられた。リヒャルトとその妻は一夜にして「ドイツ民主共和国」の市民から「ドイツ連邦共和国市民」になった。
 ヨーロッパ人が引く国境線と無縁だったアフリカの若者に、東ドイツ出身の老人は教える。壁があった頃は西側に行こうとして射殺された人もいたんだよ。
 難民たちを阻む新たな「壁」の前で老教授は思索する。
 「境界とは(……)敵を作り出すものだということを、ほかでもないここベルリンで、皆がもう忘れてしまったのだろうか?」
 深刻なテーマではあるが、「未知」との遭遇に狼狽(ろうばい)しながらも魅了されゆく老教授の姿は時にユーモラス。卓越した小説の形で国家とは誰のものなのかと問う見事な一作だ。
    ◇
Jenny Erpenbeck 1967年、東ベルリン生まれ。本書でトーマス・マン賞。『年老いた子どもの話』など。