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「緑の天幕」書評 文学の肥沃な土壌と権力の抑圧

評者: 江南亜美子 / 朝⽇新聞掲載:2022年03月26日
緑の天幕 (CREST BOOKS) 著者:リュドミラ・ウリツカヤ 出版社:新潮社 ジャンル:欧米の小説・文学

ISBN: 9784105901776
発売⽇: 2021/12/22
サイズ: 20cm/718p

「緑の天幕」 [著]リュドミラ・ウリツカヤ

 非武装の一般市民を砲撃する、街を壊滅させる、核兵器の使用をちらつかせて人心を操る――こうしたロシア軍の侵攻の非道さを批判するのと同時に、ロシアのこと、冷戦後の力学のことを学ぶ必要を感じる。敵と味方に二分する単純な図式では見えない、複雑な背景も丁寧に。そのとき歴史書は大いに役立つが、小説もまたべつの理解と共感の回路を開いてくれる。
 本書が描くのは、スターリンが死んだ1953年からソ連崩壊後の96年のモスクワだ。詩を愛する孤児のミーハ、カメラの技術を習得したイリヤ、裕福な家庭に育つも音楽家の夢を絶たれたサーニャの3人の少年は、魅力的な文学の教師に出あったことで、ロシア文学の肥沃(ひよく)な土壌に夢中になる。結成した文学サークルでの活動は、彼らののちの人生を決定づける。
 言論統制のきびしいロシアで、反体制派の知識人が行うのは地下出版(サミズダート)である。イリヤは恋人オーリャやその友人たちと、ソルジェニーツィン『収容所群島』などを複写するが、密告により家宅捜索されタイプライターを押収される。あるいはミーハは禁書を読み、職を追われる。それは個人の言葉と尊厳が奪われる体験だ。
 公権力による暴力と抑圧が、いかに人々のささやかな幸福を踏みにじり、愛を引き裂き、ときに不遇のまま死に追いやるか。拷問も、失意の亡命もあった苛酷(かこく)な時代のロシアに生きた数多(あまた)の人々の姿を、ウリツカヤは彼らの目線からじっくりと立体的に描き出していった。営みのディテールは胸を打つ。
 ミーハは「自分たちは単なる町の片隅ではなく、歴史の中で生きているのだ」と感慨にふけるが、個人の前に高く立ちはだかる社会システムは、どの時代・どこでも出現しうるのだ。
 現在、ロシア国内で戦争反対の意思を示す勇気あるロシア人はイリヤたちと重なる。傷ついた市井の人のそばに寄り添う一冊だ。
    ◇
Людмила Улицкая 1943年生まれ。ロシアの小説家。『子供時代』『それぞれの少女時代』など。