1. HOME
  2. 書評
  3. 「両岸の旅人」書評 異文化が共存する可能性を運ぶ

「両岸の旅人」書評 異文化が共存する可能性を運ぶ

評者: 藤原辰史 / 朝⽇新聞掲載:2022年08月06日
両岸の旅人 イスマイル・ユルバンと地中海の近代 (シリーズ・グローバルヒストリー) 著者:工藤 晶人 出版社:東京大学出版会 ジャンル:歴史・地理・民俗

ISBN: 9784130251730
発売⽇: 2022/06/13
サイズ: 19cm/302,12p

「両岸の旅人」 [著]工藤晶人

 一九世紀の地中海世界を北岸と南岸の軋轢(あつれき)と交流という視点から眺めてみることで、ついパリとかウィーンに向きがちな目線を日本列島一個分ほど南にずらしてみよ、というのが本書の知的誘(いざな)いである。
 産業化を推し進め、したたる富を植民地の商売でさらに増やそうと野望を燃やす北岸のキリスト教の国々。他方で、その野望によって強引に土地を奪われ、武力で対抗するが、結局圧倒され、開発が進められていくイスラームの国々。この温暖な内海には、幾多の船が行き交い、その船は、西欧人の野望を北岸から南岸へと何度となく運び、南岸からは異国情緒あふれる商品を運んできた。
 しかし、南岸から運ばれてきたのはそれだけではない。北岸の欲望が南岸の土地をどう搾取したかという負の事実に加え、異なった文化を持つ人びとが共存できるはずだという別の考え方も地中海をわたった。西ヨーロッパで当然と思われ始めていた西欧人の優越性や、一つの民族で一つの国を作るという国民国家の考え方を揺るがせるような、そんな思想である。
 主人公イスマイル・ユルバンは、そんな可能性を北岸に運んだ知識人だった。一八一二年生まれ。アフリカ系の血を引く母と、フランスから来た商人のあいだの子として仏領植民地のギアナに生まれた。フランスで教育を受けたあと、東洋と西洋の「交わり」を唱えるサン=シモン主義の使徒となり、なんと二二歳のときエジプトでイスラームに改宗した稀有(けう)な人物だ。
 その後、アルジェリアの官吏となり、親アラブ派として、ナポレオン三世に意見するほどの存在になった。だが結局、反アラブ派の隆盛の中で失脚、失意の中でフランスに戻る。
 彼にとって改宗とは棄教ではない。キリスト教にイスラームを付け足すことだった。不寛容が蔓延(はびこ)る現代社会にすがすがしい風を送り込む歴史書だ。静かな文体も心地よい。
    ◇
くどう・あきひと 1974年生まれ。学習院大教授。2013年に『地中海帝国の片影』でサントリー学芸賞。