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「遠い指先が触れて」書評 小説が到達する美の限界を更新

評者: 金原ひとみ / 朝⽇新聞掲載:2022年10月08日
遠い指先が触れて 著者:島口 大樹 出版社:講談社 ジャンル:日本の小説・文学

ISBN: 9784065288436
発売⽇: 2022/08/11
サイズ: 20cm/162p

「遠い指先が触れて」 [著]島口大樹

 萱嶋一志(かやじま・かずし)は銀行に勤める新入行員で、左手の薬指と小指の先がない。なくしたのは物心つく前で、誰から聞いたのかすら定かではないが、兎(うさぎ)に嚙(か)まれたらしい。養父母に引き取られるまで施設にいた一志は、幼い頃の記憶が曖昧(あいまい)だ。実の両親は死んだらしい。ある日突然職場を訪ねてきた中垣杏(なかがき・あん)は、一志と同じ施設出身で、実は私たちは記憶を消されたらしいと話し、二人は真相を探り始める。
 不確定なことが詰め込まれた小説だ。答えの出ない抽象的なモノローグに最初は戸惑うが、読みながら次第に確信が芽生える。この小説は何か大切なものを摑(つか)んでいて、その摑んだものをギリギリまで描こうとしていると。
 綱渡りのように繊細で端正な文章で、曖昧な思考が曖昧なまま狂いなく描かれているために、軽い電流に感電するかのように痛みや痺(しび)れを感じさえもする。しかし、ここまでやるか、ここまで執拗(しつよう)に書くか、と苦痛で本を閉じたくなった次の瞬間、その神経質な文章にこめられた切実さとポエジーが化学反応を起こしアイスピックで胸をほじくりかえされるような、それでいてエンターテインメントとしてのそれとは全く違う、ニコチンが体に滲(にじ)むような収斂(しゅうれん)的カタルシスが訪れるのだ。
 一志と杏の視点が溶け合った文章は、小説が到達し得る美の限界値を更新したのではないだろうか。人と人との境がなくなる瞬間を、私は現実では一度も体験したことがないけれど、ずっと追い求め続けていたその瞬間がここで詳(つまび)らかに描写され実現しているという事実に、過去の記憶や熱望に邂逅(かいこう)したような郷愁さえ抱いた。
 本書は小説でしか到達できない遠い深淵(しんえん)に触れる体験を、感電の痛みに耐えた者に等しく与える。読み終えた瞬間、読者は自分とこの小説がすっかり溶け合っていたことに気づき、二度と引き剝がされることなく生きることを望むだろう。
    ◇
しまぐち・だいき 1998年生まれ。作家。2021年、「鳥がぼくらは祈り、」で群像新人文学賞を受賞しデビュー。