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「物語とトラウマ」書評 閉塞感揺らぎ 微細な声を聴く

評者: 藤野裕子 / 朝⽇新聞掲載:2022年12月03日
物語とトラウマ クィア・フェミニズム批評の可能性 著者:岩川ありさ 出版社:青土社 ジャンル:日本の小説・文学

ISBN: 9784791775002
発売⽇: 2022/10/06
サイズ: 20cm/475,5p

「物語とトラウマ」 [著]岩川ありさ

 言葉にならないほど衝撃的な出来事によって生じるトラウマ。「言葉にならない」がゆえに、心に傷を負った人の声は聞き逃されてしまう。文学研究はそうした声をいかに聴き、書き記すことができるのか。
 本書は、多和田葉子・李琴峰・大江健三郎・桐野夏生らの手による、トラウマ的な出来事を描いた作品を読み解く。読解の手法は、決して突飛(とっぴ)ではない。李琴峰の『独り舞』をめぐっては、「群像」誌上で発表された初出の「独舞」と、翌年に刊行された単行本版、さらに4年後の文庫版の、三つの版を比較し、改稿の推移を追う。
 そこから見出(みいだ)されるのは、物語のかすかな「揺らぎ」や「ずれ」である。「独り舞いを続けなければならないのだろう」というくだりが「ならないのではないだろうか」に改稿される時、主人公の深まりゆく閉塞(へいそく)感がわずかに揺らぎ、他者とつながる可能性が生じる。こうした読みを重ねて、苦痛に満ちながらも、生と向きあい続けた物語として、『独り舞』を読者に再提示する。
 手法はオーソドックスでも、微細な声を聴き逃さないのは、著者自身がトラウマ的な出来事により声を奪われ、物語に支えられて生きてきたことと深く関わる。著者は「フェミニストのクィアな女性であり、性暴力被害にあったことがある文学研究者」として、自らの経験を語りながら論を進め、逸脱した者の生を脅かす性・身体・欲望の規範を問う。「自伝的な研究」と呼ぶその叙述スタイルは、露悪的な所作や感傷で読者の気を引くそれとはほど遠い。文章を読み、紡ぐ行為は、人生と不可分の運動なのだ。
 それにしても、ここに至るまでどれほどの時間を要しただろう。生きのびるために必要だった物語とその批評を、著者は慎重かつ丁寧に読者に手渡す。それは読む者の人生と触れあい、さらに新たな表現が生み出されるかもしれない。こうして、生きるための「居場所」がまた一つ広がる。
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いわかわ・ありさ 1980年生まれ。早稲田大准教授(現代日本文学、クィア・スタディーズ、トラウマ研究など)。