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「ドナウ、小さな水の旅」書評 大河に根ざす暮らしと暴力の跡

評者: 藤原辰史 / 朝⽇新聞掲載:2023年02月18日
ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発 著者:山崎 佳代子 出版社:左右社 ジャンル:詩歌

ISBN: 9784865283549
発売⽇:
サイズ: 19cm/285p

「ドナウ、小さな水の旅」 [著]山崎佳代子

 地球の表面に毛細血管のように張り巡らされた川の一本一本に人びとの暮らしが溶け込んでいる。川幅の広いドナウ河が中心をつらぬくセルビアの首都ベオグラードに住む詩人は、その支流の沿岸に住まう人びとと語らい、食べ、飲む。
 まるで自分の血液にドナウの水が流れているのを確認するかのように、詩人は人びとと葡萄(ぶどう)酒、ラキアという名の火酒、コーヒーなどを共有し、周辺でとれた鯰(なまず)や鯉(こい)や鱒(ます)に舌鼓を打つ。「お魚はね、三度、泳ぐと言うでしょ。水の中、ワインの中、そしてお腹(なか)の中」と詩人を招いた女性は語る。
 だが、この本の魅力はこんなバルカンの人びととの豊かな飲食の光景だけではない。人びとの語りや建物に地層のように堆積(たいせき)する歴史の群れである。
 中石器時代の集落跡にはチョウザメなどの漁をしていたと思われる人たちの遺骨がドナウの下流に向けて埋葬されていた。上流は祖先と生命の再生、下流は死を意味する信仰が中石器時代にあったらしい。
 ドナウ河支流のサバ川とティサ川は、一六九九年にオスマン帝国とヨーロッパ諸国が条約でお互いの境界線と決めた川。その会議のあったスレムスキー・カルロウツィに行き、巨大な帝国に蹂躙(じゅうりん)され分断されたセルビア人に思いを馳(は)せる。
 ナチの傀儡(かいらい)国家や占領地で迫害された人たちの声も丹念に拾う。ドナウ流域にはナチと戦ったパルチザンを讃(たた)える記念碑が多く、ユーゴ内戦の痕跡も残る。
 詩人の家も旧ユーゴ時代にサバ川沿いに作られた団地だ。同じ団地に住むラドミラと詩人の交流に心打たれた。サバ川沿いの子ども絶滅収容所、ドナウの支流沿いのダッハウ強制収容所を生き延びたが父を失い、内戦でも知人に裏切られた彼女は、日本とあなたが好きだ、なぜなら広島と長崎のことがあるから、と詩人に語る。この言葉が頭から離れない。
 暴力が重ね塗られた大地に、今日も川は流れる。
    ◇
やまさき・かよこ 1956年生まれ。詩人、翻訳家。1981年からベオグラード在住。著書に『パンと野いちご』など。