1. HOME
  2. 書評
  3. 「内角のわたし」書評 かわいく強く平穏に生きる困難

「内角のわたし」書評 かわいく強く平穏に生きる困難

評者: 藤田香織 / 朝⽇新聞掲載:2023年05月13日
内角のわたし 著者:伊藤 朱里 出版社:双葉社 ジャンル:小説

ISBN: 9784575246148
発売⽇: 2023/03/23
サイズ: 19cm/220p

「内角のわたし」 [著]伊藤朱里

 最近、正解が分からない、と悩むことが増えた。
 先日もファミレスで新年度に編成されたPTAらしきグループを見かけた際、「御主人」「旦那さん」といった言葉が頻繁に聞こえてきて、当事者でもないのにピクっと反応してしまった。果たしてこの「主人」や「旦那」は、無自覚のそれなのか。いろいろ考え尽くした果てに一周回ってのそれなのか。自分の伴侶は「夫」と口にする人もいただけに、ますますその場の最適解が分からなくなった。
 本書の主人公・森が働いている歯科医院の「おじさん」院長は、迷うことなく妻を「嫁」と言う。昼休みに嫁が来るから荷物を預かっておいて欲しい。指示を受けて、森が密(ひそ)かに「直線」と呼んでいる頑(かたく)なで毅然(きぜん)とした美人の先輩は、眉間(みけん)にしわを浮かべながら「いまどき、嫁だって」とつぶやく。職場には「曲線」もいる。こちらは「直線」とは対照的に、すべてがゆるやかで女であることをてらいもなく武器として活用し生きているタイプだ。
 森は「直線」にも「曲線」にもなりきれない。心の中には常に三人の「わたし」がいて、めまぐるしくせめぎあっている。かわいいものが好きで、周囲から愛され守られたい「サイン」。辛辣(しんらつ)で独立心をもち強くあろうとする「コサイン」。物事を平穏無事にやり過ごそうとする「タンジェント」。しかし、三つの内角で作られている「わたし」は、突然の悪意だけでなく、無神経な好意によっても簡単に歪(ゆが)んでしまう。
 生き難い毎日から目を逸(そ)らすように、スマホゲームの仮想世界に逃げ込んでいた森は、職場の「新人くん」が、共通言語を持っていると知り心を開きかける。そこから先の容赦のない、けれど濁すことも誤魔化(ごまか)すこともない展開がいい。
 かわいさと強さを併せ持ち、平穏に生きることはなぜこんなにも困難なのか。「多様性」に困惑し「自分らしさ」の呪縛に苦しむ「わたしたち」の姿がある。
    ◇
いとう・あかり 1986年生まれ。2015年、「変わらざる喜び」で太宰治賞。著書に『ピンク色なんかこわくない』など。