1. HOME
  2. 書評
  3. 「墨のゆらめき」書評 文字に込められた魂 響く「声」

「墨のゆらめき」書評 文字に込められた魂 響く「声」

評者: 稲泉連 / 朝⽇新聞掲載:2023年08月05日
墨のゆらめき 著者:三浦 しをん 出版社:新潮社 ジャンル:小説

ISBN: 9784104541089
発売⽇: 2023/05/31
サイズ: 20cm/225p

「墨のゆらめき」 [著]三浦しをん

 書体とは「声」のようなものだ――。以前、フォントの開発を行うある企業を取材した際、話を聞いた担当者が言っていた。
 書体には大声を張り上げるものもあれば、小さく囁(ささや)くようなものもある。ちょっとした文章であっても、文字のまとう力によって伝わるメッセージはいかようにも変わる。「書」をテーマにした本書の魅力あふれる数々の場面を読みながら、人が書く文字もまた、様々な世界観や思いを伝える「声」なのだ、とあらためて納得した。
 本書の主人公・続力(つづき・ちから)は、都内のホテルに勤務する実直な男だ。彼はその業務の中で招待状の宛名などを書く「筆耕士」である書家・遠田薫に会いに行き、ひょんなことから「代筆屋」を手伝わされることに。
 転校する友達や恋人への別れ話の手紙の文面を考えるよう指示され、それを文字として認めようというのだが、続は無理難題を言う遠田の自由奔放な性格に翻弄(ほんろう)され――。
 この遠田という人物がなんとも魅力的なのだ。子供相手の書道教室を都内の古民家で営む彼は、あらゆる筆跡を再現することができる。だが、その来歴は謎めいており、なにやら過去がありそうだ。
 そんな遠田と奇妙なコンビを組むことになった続は、いつしか彼の書の放つ力に惹(ひ)きつけられていく。ホテルの依頼で「謹賀新年」と遠田が書くとき、〈墨がゆらめき新しい年を言祝(ことほ)ぐ龍の姿が浮かびあがる思い〉にとらわれる、というように。
 物語の終盤、ある過去を明かした遠田が葛藤する続を前にして、退路を断つように自らの字を画仙紙に書き付ける場面がある。
 自身の人生を賭けて筆を振るう一人の書家の姿。その筆先から紡ぎ出される文字に魂が込められ、本当の「声」が響く。そのとき「書」というものの持つ迫力が、文字通りゆらめくように立ち上る様子は圧巻だった。
    ◇
みうら・しをん 1976年生まれ。作家。『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞。『舟を編む』で本屋大賞。