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「ルクレツィアの肖像」書評 奪われて屈せず 少女の眩い生

評者: 澤田瞳子 / 朝⽇新聞掲載:2023年08月12日
ルクレツィアの肖像 (CREST BOOKS) 著者:マギー・オファーレル 出版社:新潮社 ジャンル:小説

ISBN: 9784105901899
発売⽇: 2023/06/29
サイズ: 20cm/447p

「ルクレツィアの肖像」 [著]マギー・オファーレル

 本作の主人公、ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチについて判明していることは乏しい。1545年生まれ。15歳でフェラーラ公アルフォンソ2世に嫁ぎ、翌年死亡。夫に殺されたとの噂(うわさ)があったとの事象が、歴史学的には彼女にまつわるほぼ全てである。
 しかし本書を繙(ひもと)いた読者は、この薄幸の少女が作中に生々しく息づいている事実に驚嘆するだろう。本作はルクレツィアの死の前夜、彼女が夫の殺意を感じつつ食卓に着くシーンより始まる。自らの死を間近にしながらも、「上手におやりなさいね」と内心呟(つぶや)くルクレツィアは、己の身に起こる事柄を全て観察しようとするかの如(ごと)く冷静である。
 幼少時のルクレツィアはその鋭い感性ゆえ、周囲からは風変わりな子と見なされる。家族の愛を求めつつも、自らの裡(うち)なる声に背けず心引き裂かれる姿は痛々しい。ある日、父公が異国より取り寄せた雌虎と対峙(たいじ)した彼女は、言葉を持たぬ獣の悲しみを肌で感じるが、周囲はそれが分からない。尾を一振りして檻(おり)の暗がりに戻り、その後ライオンたちに殺される虎は、姉の代理としてアルフォンソの妻となり、子供を産む女であれと強いられるルクレツィアと重なる。
 だが夫によって、愛する絵画を、幼い頃より伸ばし続けた髪を――彼女の人生そのものを奪われながらも、ルクレツィアの魂は決して何者にも屈しない。筆者がそんな彼女に与えたラストは、常に自分自身であることを手放さぬ彼女ならではの救いとともに、拭いがたい苦みに満ちている。
 著者のあとがきにある如く、本書には恣意(しい)的に史実を変更している箇所が複数ある。だが史書に記録があろうがなかろうが、遠い過去から現代までの間に、有名無名数え切れぬ数の人々がそれぞれの時代で生を全うしたことは間違いない。歴史に埋もれたルクレツィアに光を当てると共に、一人の少女の眩(まばゆ)い生を描き切った物語である。
    ◇
Maggie O'Farrell 1972年生まれ。2020年刊の『ハムネット』で英女性小説賞や全米批評家協会賞などを受賞。