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「戦争とデータ」書評 正義を諦めぬ人々の長い道のり

評者: 三牧聖子 / 朝⽇新聞掲載:2023年08月12日
戦争とデータ 死者はいかに数値となったか (中公選書) 著者:五十嵐元道 出版社:中央公論新社 ジャンル:新書・選書・ブックレット

ISBN: 9784121101402
発売⽇: 2023/07/07
サイズ: 20cm/268p

「戦争とデータ」 [著]五十嵐元道

 7月、国連のウクライナ人権監視団はウクライナ戦争の開始から500日間で9千人以上の文民が殺害されたと発表し、実際の犠牲者ははるかに多いだろうと付け加えた。文民被害の正確な把握は容易でない。危険な戦場で正確なデータを収集することはそもそも困難だが、加えて戦争当事国は、都合が悪いデータを改竄(かいざん)したり、文民を戦闘員だと偽ったりする。それでも、数々の制約を乗り越え、文民被害の正確な把握への試みは着実に発展してきた。本書がその推進力として注目するのが、人権NGOや国際組織、専門家が形成するグローバルな人道ネットワークだ。
 文民被害が記録され、告発されるようになったのはここ数十年のことだ。19世紀まで文民は潜在的な脅威とすらみなされた。第2次世界大戦後のジュネーブ諸条約(1949年)でようやく戦時の文民保護が明文化されたが、その履行を監視する制度は設けられなかった。人道法違反を調査・告発するNGOが登場し、グローバルな人権監視のネットワークを形成していったのは、70年代以降のことだ。その後、統計学や法医学の手法も採り入れられ、戦争データの科学的耐久性が高められていった。
 「一人の人間がかつてこの世に生きていたことがなかったかのように生者の世界から抹殺されたとき、はじめて彼は本当に殺されたのである」。本書で引用されるハンナ・アレントの言葉だ。戦死者についての事実を解明しても命は戻らない。それでも、記録からも記憶からも抹消されるという最悪の暴力からその人を救える。今も続くウクライナ戦争では、国連の諸機関や人権NGOが文民被害のデータを定期的に調査・公表し、一人ひとりの市民もロシア軍の戦争犯罪をスマホに収めている。凄惨(せいさん)な戦争の中でも、正義の回復への努力が積み重ねられている。本書は、正義を決して諦めなかった無数の人々の戦いの記録でもある。
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いがらし・もとみち 1984年生まれ。関西大教授(国際関係論、国際関係史)。著書に『支配する人道主義』。