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「ヒロイン」書評 与えられた「役」を演じて生きる

評者: 藤田香織 / 朝⽇新聞掲載:2023年10月07日
ヒロイン 著者:桜木 紫乃 出版社:毎日新聞出版 ジャンル:小説

ISBN: 9784620108704
発売⽇: 2023/09/15
サイズ: 20cm/404p

「ヒロイン」 [著]桜木紫乃

 誰にでも等しく、人生は一度しかない。どう足搔(あが)いても経験できることは限られていて、世の中には、自分の人生では起こり得ない物事が溢(あふ)れている。
 しかし本書の主人公は、まったく思いがけず、何度も他人に成りすましながら十七年間逃げ続ける指名手配犯、という極めて特殊な人生を歩むことになった。
 バレエ教室を営む母親に幼い頃から生活を厳重に管理され育った岡本啓美(ひろみ)はバレリーナとして開花できぬまま成長し、高校三年生のとき、叔母に誘われ新興宗教団体〈光の心教団〉のセミナーに参加する。屈託を抱えていた啓美は、やがて母を捨て出家。富士山のふもとに立つ教団施設に身を寄せ約五年の時を過ごした。そして一九九五年三月。小さな異変を感じた啓美は、許可されていなかった区域に立ち入り、偶然居合わせた幹部に車で施設から連れ出される。
 啓美は幹部に付き従い都内を歩き回っただけだったが、気が付けば多数の重軽傷者と死者五名をだし世間を震撼(しんかん)させた〈渋谷駅毒ガス散布事件〉の実行犯として指名手配されるに至るのだ。
 何も知らない。何もしていない。にもかかわらず、世間では凶悪犯として扱われている自分。「逃亡」しようという強い意志があったわけではない。けれど無実なのに捕まりたくもなかった。命じられるまま、誘われ流されるままに生きてきた啓美が、十七年もの歳月を「他人」に成りすまし生きるなかで「自分」を摑(つか)みとっていく姿がいい。
 と同時に、彼女が関わる人々が見せる様々な「顔」も読みどころだ。母として妻として、娘として孫として女として、いや男性であっても同様に、自分は今、与えられた役割を演じているな、という感覚は、多くの人が抱くことがあるのではないだろうか。
 読み終えて啓美の「これから」を思い、自分の「役」を思った。どう演じていくのか。考え続けたい。
    ◇
さくらぎ・しの 1965年生まれ。2013年『ホテルローヤル』で直木賞、20年『家族じまい』で中央公論文芸賞。