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「マリエ」書評 柔らかで傷つきやすい魂の歩み

評者: 澤田瞳子 / 朝⽇新聞掲載:2023年10月28日
マリエ 著者:千早 茜 出版社:文藝春秋 ジャンル:日本の小説・文学

ISBN: 9784163917405
発売⽇: 2023/08/25
サイズ: 20cm/242p

「マリエ」 [著]千早茜

 人は生きる上で、有形無形さまざまなかたちに押し込められる。男、女、独身、既婚、無職、正社員、幸、不幸。だがそれらを構成する境界線は、一歩退いて眺めれば、実に曖昧(あいまい)な「常識」や思い込みによって成り立っている箇所が数多(あまた)ある。
 本作の主人公・まりえは四十歳目前で、夫から切り出された離婚に応じる。彼女が選び、すがすがしさすら覚えた離婚にもかかわらず、周囲の人々は自らと社会の物差しでその行為と彼女を測る。ちなみに私はまりえの先輩男性が、女性たちの装いについて決めつけた際のやりとりに、そうそれ!とつい声を上げてしまった。とはいえ、「こうあらねば」と人に押し付ける彼らの姿は、程度の差こそあれ類似の愚かさを抱いているであろう我々自身の映し鏡だ。そしてまりえ自身もまた漠然とした不安ゆえに揺れ動き、時に世の分かりやすいかたちに身を任せようとする。
 自らの道をただひたすら邁進(まいしん)する決然たるヒロインの姿は、ここにはない。だが幾多の感情や社会通念の間を行き来しながら、やがて一つの結論へとたどり着く揺らぎこそが、生きるという行為ではあるまいか。
 まりえの年上の飲み友達・マキさんは、自分たちの時代の女の窮屈さを承知し、主人公を他人として尊重する自立した人物。だがそんな彼女ですら、ある料理を「おかずだかデザートだかわからないものって駄目なのよ」と拒む姿には、周囲から完全に自由ではいられぬ人間の限界と、それがゆえのやるせない愛(いと)おしさが共に漂う。
 思えば本作には、完全な悪人も完全な善人も登場しない。まりえの元夫とて見ようによっては親切な点があるし、主人公はその心の揺らぎゆえに大切な相手を傷つける。折ごとにまりえが作る料理の湯気のように柔らかで、それゆえ傷つきやすい剝(む)き出しの魂の歩みを、繊細に、しかし残酷なまでに鋭く直視した物語である。
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ちはや・あかね 1979年生まれ。『しろがねの葉』で直木賞。著書に『赤い月の香り』『ひきなみ』など。