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「新古事記」書評 静かな生活 遠景にかすむ恐怖

評者: 有田哲文 / 朝⽇新聞掲載:2023年11月18日
新古事記 an impossible story 著者:村田 喜代子 出版社:講談社 ジャンル:小説

ISBN: 9784065326831
発売⽇: 2023/08/10
サイズ: 20cm/349p

「新古事記」 [著]村田喜代子

 第2次世界大戦のさなか、米国が原爆の開発をめざした「マンハッタン計画」。ニューメキシコ州ロスアラモスの山中に、秘密の研究施設が設けられた。集められた科学者たちは身一つで来たわけではない。妻や子、ペットの犬たちも一緒だった。人里離れた地に突如、まちができた。小説は、そこで暮らす妻たちに焦点をあてる。
 異様なのは、夫たちが没頭しているものが何なのか、彼女らに一切知らされていないことだ。読者は不思議な感覚にとらわれるだろう。後に広島と長崎に地獄絵図をもたらす兵器が研究されているはずなのに、物語の中で詳述はされず、ぼんやりと遠景にあるだけだ。代わりに綴(つづ)られるのが妻たちの静かな生活で、子どもを育て、近所付き合いをし、神に祈りを捧げる。
 小説の語り手は日系3世の女性である。恋人の物理学者と一緒にここにやって来た彼女の手には、古いノートがあり、祖父の言葉が記されている。旧約聖書の創造主とは全く違う日本の頼りない神々のこと。「人」によく似た「火」という文字のこと。彼女はやがて、日本の神たちが火から逃げ惑う夢を見る。本作はすぐれた歴史小説ではない。すぐれた寓話(ぐうわ)である。
 このまちでは、ひんぱんに爆発音や地響きがする。激しく反応し、狂ったように騒ぐのが犬たちだ。音は聞こえるが正体が見えないとき、犬の恐怖は最大になる。「臆病とは違う。野生の生き物の警戒心だ。人間は鈍っちまったけどな」とは獣医の言葉だ。しまい込んできた恐怖心を、登場人物たちも最後に味わうことになる。
 もしかしたらロスアラモスでの妻たちの生活は、ちっとも不思議でないのかもしれない。戦争は、自分の胸に匕首(あいくち)を突きつけられるまで遠景に留め置くことができる。知らないし、尋ねても仕方ないと思う妻たちと、私たちとの違いは。ウクライナやガザのことを思いつつ、本を閉じる。
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むらた・きよこ 1945年生まれ。著書に『故郷のわが家』(野間文芸賞)、『ゆうじょこう』(読売文学賞)など。