古典百名山

ハイデガー「存在と時間」 大澤真幸が読む

2017年11月19日

Martin Heidegger(1889~1976)。ドイツの哲学者

■「死」から人生をとらえ返す

 ハイデガーの主著『存在と時間』は、20世紀の哲学書の中で最も大きな影響力をもった書物である。今からちょうど90年前、奇妙な造語がたくさん詰まった難解な大著が出版されると、当時の若き思想家たちはたちまちこれに魅了された。
 ハイデガーは本書で、一人ひとりの人間を「現存在(ダーザイン)」という風変わりな語で呼ぶ。ドイツ語「Dasein」の原義は「現にそこにある」。なぜ、普通に「人間」とか「主体」とかを使わないのか。人間はそれぞれ、まさにここと呼べるような固有の状況の中に投げ込まれていることを強調するためだろう。
 現存在の存在の仕方は「気づかい」によって特徴づけられる、とされている。つまり、現存在とは、自分の存在、自分のよきあり方を気づかうという本性をもった存在者である。
 もし自分の存在の可能性を本気で気づかうならば、現存在は、ひとつのことを見すえざるをえなくなる。己の死である。いずれ確実に自分の存在そのものが不可能になる。死を運命として自覚的に受け入れることを「死への先駆」と呼ぶ。実際に死が訪れる前に、死の方へ先走っていき、そこから自分の人生をとらえ返すからだ。
 死への先駆によって現存在は自分の将来の(有限の)可能性にかかわらざるをえない。そのことは同時に、過去から与えられた自分の条件を引き受けることでもある。かくして今、現存在は行為する。
 ハイデガーによれば、死の覚悟がある者だけが、「良心の呼び声」に応えることができる。どうしてか。こう考えるとよい。永遠に生きるとしたら、今それをやるかどうかは重要なことではなくなる。いつかやればよいからだ。死がいつでも訪れうるという状況の中で初めて、今それをなすべきかが切迫した倫理的な選択になる。
 こう説く本書自体が良心の声である。お前は本来的に生きているのか。ハイデガーが後半の執筆を断念したため、本書は未完に終わった。(社会学者)

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