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神的批評 [著]大澤信亮 

[評者]中島岳志(北海道大学准教授・南アジア地域研究、政治思想史)

[掲載]2010年12月12日

[ジャンル]人文 社会

表紙画像

■自己との対峙迫る「食べるとは」

 私たちは皆、殺しながら生きている。生きるためには食べなければならない。食べることは殺すことである。生きることと殺すことは不可分の関係にある。
 しかし、日常の私たちは、生きることの暴力を忘却している。みんな子どものころから気付いているのに。本当は知っているのに。
 暴力は、すべての人間の命に組み込まれている。だから暴力を問うことは、無限の絶望を伴う。時には自己の根拠を崩壊させる。できれば、そんなことは問わずに生きていたい。忘れていたい。しかし、ふとした瞬間、私たちはその絶望と出会ってしまう。繰り返し出会ってしまう。否応(いやおう)なく出会ってしまう。
 著者は文学の本質を「自らの問いにおいて対象と向き合い、その問いを徹底化し無限化していく実践」と捉える。本当の文学や批評は、自己への疑問と不安を喚起させ、自己との対峙(たいじ)を要求する。だから「食べること」を問わなければならない。
 本書は、まず宮沢賢治を取り上げる。賢治は「あらゆる生物のほんとうの幸福」を願った。彼は菜食主義を採り、暴力を自省しようとする。それでも自分は何かを殺してしまう。どうやっても暴力の外部に抜け出ることはできない。だとすれば、人間には生命の自己破壊しか用意されていないのか。
 「殺されたくない。殺したくない。けれど死ぬこともできない。そして殺していく。だとすれば生きるとはどういうことか」
 この問いは、北大路魯山人と「食」の問題へと展開する。「人間にとって食事とは何か」
 魯山人の問いは「殺した相手」からの「愛に貫かれて食べること」へと行きつく。「食うとは食われること」という感覚の分有によって他者の光が差し込み、自己が差し出される。
 著者は言う。「自分を問うこと。これが私の批評原理である」
 向き合うことを回避する批評があふれる中、著者は文芸批評の可能性をこじ開けようとする。その荒々しくも繊細な力に、読者は自己と世界へと導かれるだろう。
 評・中島岳志(北海道大学准教授・アジア政治)
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 新潮社・2100円/おおさわ・のぶあき 76年生まれ。文芸批評家。「宮澤賢治の暴力」で新潮新人賞。

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