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パンとペン―社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い [著]黒岩比佐子

[評者]中島岳志(北海道大学准教授・南アジア地域研究、政治思想史)

[掲載]2010年11月28日

[ジャンル]歴史 社会 ノンフィクション・評伝

表紙画像

■苦境を笑いに変える抵抗の精神

 今年は大逆事件から100年。幸徳秋水をはじめとする社会主義者・アナーキスト12名が処刑され、社会主義は「冬の時代」に突入した。本書は、主に大逆事件からの約10年間にスポットライトを当て、生き残った社会主義者の苦節を描く。その中心に据えられるのが、堺利彦と「売文社」の活動だ。
 若き日の堺は、放蕩(ほうとう)の繰り返しだった。入ってきた金のほとんどを遊興に使い、借金を重ねた。彼は糊口(ここう)を凌(しの)ぐために小説を書き、大阪や福岡で新聞記者を務める。その後、黒岩涙香の「万(よろず)朝報」に入社し、社会主義に目覚めていった。
 「平民新聞」で非戦論を掲げ活躍するが、1908年の赤旗事件で逮捕され、獄中生活を余儀なくされる。しかし、そのことによって大逆事件への連座を免れ、幸徳らの検挙後に出獄した。仲間の死刑判決を知った夜、堺は泥酔し荒れた。そして死刑執行後、同志たちの遺体を引き取り、身の危険を顧みず遺族のために奔走した。
 彼は売文社を立ち上げ、新たな活動を展開する。売文社は「編集プロダクションの先駆的なもの」で、書簡や演説、借金依頼の代筆から翻訳まで、あらゆる文筆代理を請け負った。堺は窮地に陥った同志に仕事と居場所を与え、活動のチャンスをうかがった。
 著者は言う。「私は『売文社』という語の強烈なインパクトに惹(ひ)きつけられた」
 堺にはユーモアと人間的度量があった。苦境を笑いに変え、徹底的に仲間の世話をした。著者はそんな堺が掲げた「売文」という語に抵抗の精神を見いだす。
 堺は33年に畳の上で亡くなった。その死は、同時代の社会主義者に比べてドラマチックではない。そのため、堺利彦の業績は記憶されず、語られることも少ない。しかし、暗黒の時代に闘い続け、常にユーモアと優しさを忘れなかった堺に、著者は魅(ひ)かれる。その筆致は、淡々としつつ愛に溢(あふ)れている。
 著者は、本書を残して今月17日に亡くなった。遺作となった本書は、著者の代表作として読み継がれるだろう。名著だ。
 評・中島岳志(北海道大学准教授・アジア政治)
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 講談社・2520円/くろいわ・ひさこ 1958〜2010年。ノンフィクション作家。『古書の森逍遥(しょうよう)』ほか。

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