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切りとれ、あの祈る手を―〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話 [著]佐々木中

[評者]斎藤環(精神科医)

[掲載]2010年11月28日

[ジャンル]人文

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■「すべてが情報」疑う 躍動する文体の挑発
 
 著者のデビュー作『夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル』(以文社)は、超重量級の思想書であるにも関(かか)わらず、まるで小説のように広く読まれた。かつて浅田彰の、あるいは東浩紀の処女作がそう読まれたように。
 コンパクトで語り口調の本書は、より多くの読者を獲得するだろう。そしてなにより、この「文体」である。小説すら文体を失いつつある昨今、この著者の確乎(かっこ)たる文体は際立っている。そこには反復と回帰が、躍動する挑発が、厳粛な切断とシリアスな笑いがある。書くこと、そして読むことは、常に身体的な経験なのだと今更ながら思い知らされる。
 前作にひきつづき、本書の中核に据えられるのは、ドグマ人類学を提唱するピエール・ルジャンドルの理論、そのなかでも中心的な位置を占める概念の一つ「中世解釈者革命」だ。
 それは簡単に言えば、6世紀に東ローマ帝国で編纂(へんさん)された『ローマ法大全』全50巻が11世紀末に発見され、それが精密に書き換えられて12世紀における教会法の成立に至る過程を指す。かくして教会が成立し、それは近代国家(および官僚制)の原型をもたらした。
 このときローマ法は翻訳され解釈され索引を付けられ、徹底的に「情報化」された。情報化された統治システムは異物としての「暴力」を括(くく)り出す。そして「情報」か「暴力」かという二者択一の残余として「主権」がもたらされた。つまりこの時点で、近代世界は「初期設定」されたのだ。これを「革命」と呼ばずして何と呼ぶか。
 「すべてが情報である」という「古くさ」い発想もここに由来する。それゆえか「革命」に対する著者の態度は両義的だ。それはしばしば暴力革命として、夥(おびただ)しい惨事をもたらした。しかし、と彼は続ける。読むことと書くこと、それ自体が革命であるということを知らしめたのも、この「革命」ではなかったか。だから彼はくり返す。革命は文学からしか起こらない、と。
 かくして偉大な「文学」の担い手として召喚されるのは、マルティン・ルターでありムハンマドであり、ニーチェでありドストエフスキーだ。そのかたわらにフロイト、そしてラカンの名がそえられる。文学の肯定が精神分析とともになされることはまったく正しい。情報ならぬ隠喩(いんゆ)と無意識のつづれ織りこそが、文学でありテクストなのだから。
 いまや著者が批判する「マネージメント原理主義」、私の言葉で言えば「情報幻想」が覆い尽くしたこの世界では、「歴史の終わり」が、「文学の終わり」が語られる。そんな末人(ニーチェ)気取りの人々に、「情報それ自体が堕落なのだ」(ドゥルーズ)という叫びはどこまで届くだろうか。いや、そんなことは知ったことではない。少なくとも「何も終わらない。何も」という著者の言葉が信じられる限り、まだ希望はあるのだから。
 評・斎藤環(精神科医)
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 河出書房新社・2100円/ささき・あたる 73年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。文学博士。専門は現代思想、理論宗教学。立教大学、東京医科歯科大学非常勤講師。著書に『夜戦と永遠』がある。

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