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フェリーニ [著]ベニート・メルリーノ 

[評者]横尾忠則(美術家)

[掲載]2010年11月14日

[ジャンル]アート・ファッション・芸能

表紙画像

■映画と生活、本物なのか作り物か

 意外かも知れないがフェリーニが映画を撮っていない期間の生活は何とも退屈で味気ない。旅行も映画・演劇鑑賞の興味もなく、わが永井荷風みたいに毎日同じコースを歩いて同じ店でコーヒーを飲み、顔見知りのタクシーの運転手と言葉を交わし、これといったコレクションもスポーツもせず、50代で不眠症になるまで本をまともに読むことがなかった無趣味な彼は、日曜日でも誰もいないチネチッタ撮影所を訪れ、終日そこが魂の避難場所であるかのように「この内気な夢想家」はたった一人で孤独を友とするのだった。
 こんなアンニュイな生活はどこかフェリーニの映画の根底に流れている時間のように思えるのだった。そんな反近代的な時間の中で創造されるあの悪夢のような非現実的で一見無秩序で支離滅裂な狂気と快楽の楽園世界は一体どこからくるのだろうか。
 また彼の内なる永遠のインファンテリズムがまるで霊魂のように抜け出し、無垢(むく)な子供の王国を彼の映画の中に如何(いか)なる方法で移築させてしまうのだろうか。彼の映画を自伝として見る批評家が多いのは登場人物に彼を投影してしまうためだと思うが、それはレンブラントの自画像がコスプレによって普遍化されていることへの無理解と共通した視点からフェリーニの映画を見るからであろう。
 フェリーニは毎回新しい作品を作りたいためにも「自伝的なものは何も望まない」と言う。彼は一作終わるたびにもう二度と作品ができないのではという空虚と絶望的な強迫観念に襲われる。創造者であれば誰もが体験する一種の終末意識であるが、フェリーニはこんな強迫観念を解消するためにもこうした感情は全(すべ)て映画の中で吐き出すことで中和してきたようだが、その結果それが本物なのか作り物なのかが混然一体化してしまう。
 そんな彼の想像力とビジョンをわれわれはフェリーニのスペクタクルと解し、気がつけば自分が道化師になってしまっている。そんな僕は前々々回に続いて、また『フェリーニ』を取り上げてしまった。
 評・横尾忠則(美術家)
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 山口俊洋訳、祥伝社・1785円/Benito Merlino イタリア出身のミュージシャン。パリで活動。

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