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知はいかにして「再発明」されたか―アレクサンドリア図書館からインターネットまで [著]I・F・マクニーリーほか

[評者]斎藤環(精神科医)

[掲載]2010年11月07日

[ジャンル]歴史 人文

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■〈消えゆく媒介者〉たちの変遷 

 知とは「情報」である。私たちはそう信じている。しかしそれは、現代における「信仰」のひとつなのかもしれない。
 口承文化だった古代ギリシャ時代、知は人間そのものだった。ソクラテスは話し言葉にこそ真実が宿ると信じ、書物に頼るソフィストを軽蔑(けいべつ)した。やがて知の中心に「図書館」が位置づけられ、アレクサンドリアにあった巨大な図書館と、漢王朝の王立図書館が対比される。
 ローマ帝国の崩壊とともにキリスト教がヨーロッパを支配すると、知的資産は図書館から修道院へと引き継がれた。11〜12世紀に至って、知の中心は辺境の修道院から都市部の大学へと移る。当時の大学は今のような施設ではなく、教師と学生の人的ネットワークだった。
 17世紀から啓蒙(けいもう)時代までの知を支えたのは「手紙」であった。著者はこれを「文字の共和国」と呼ぶ。回覧され書き込みが付け加えられていく手紙の形式は、さながら現代のツイッターのようだ。
 19世紀には近代的な大学が生まれ、多くの「専門分野」が生まれる。プロシアの人文主義者フンボルトは公教育のシステムを整備した。そして18世紀、現代にまで続く「実験室」の時代となる。制御と再現が可能な自然科学の手法がパスツールによって完成され、知は実験によってもたらされるものとなった。
 かなり大胆な整理であり、違和感もないではない。聖書についてはグーテンベルクやルターへの言及が少なすぎ、パスツールのみが重視されてコッホの名前がないのもフェアではない。にもかかわらず彼らの仮説が興味深いのは、「知に対する態度」において、時代ごとの臆見(ドクサ)が垣間見えるからだ。
 「図書館」や「修道院」、あるいは「文字の共和国」から「実験室」に至るまで、これらはいわば「消えゆく媒介者」(フレドリック・ジェイムソン)なのだろう。時代の変化を促しつつ、次の時代には消滅していく共同幻想。ならば、「情報」信仰の総本山たるインターネットにも「次」はあるのだろうか。
 評・斎藤環(精神科医)
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 冨永星訳、日経BP社・2310円/Ian F.McNeely, Lisa Wolverton いずれも米国の歴史学者。

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