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自我の源泉 近代的アイデンティティの形成 [著]チャールズ・テイラー

[評者]姜尚中(東京大学教授・政治学、政治思想史)

[掲載]2010年11月07日

[ジャンル]人文

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■善と結びつき広がる、近代的自我の可能性
 
 本書を読みながら思い出したのは、夏目漱石のことである。小説『こころ』で、自殺する主人公の先生に、自由と独立と己をほしいままにして現代に生きるわれわれはこの寂しさを味わわなければならないと語らしめている漱石は、近代的な自我の迷路の中で懊悩(おうのう)し続けた。本書には、まるでそのような漱石の苦悩に応えようとする哲学的人間学の趣があるのだ。
 筆者は、いま最も旬な哲学者として名高いマイケル・サンデルの師匠とも言えるチャールズ・テイラーである。ドイツの哲学者、ヘーゲルに関する研究で名高いテイラーは、哲学史的洞察と分析的方法を駆使しながら、わたしたちが主体や自我、人格として呼び習わしている「近代的アイデンティティ」を明確化し、その明と暗、偉大さと不幸の複雑に入り交じった諸相を明らかにしていく。ここに言う「近代的アイデンティティ」とは、ウェーバー風に言えば、「西洋近代」に誕生しながら、やがて普遍的な意義を持つに至った自我や「わたし」についての観念ということになる。
 テイラーのみるところ、こうした近代的なアイデンティティには、三つの特徴が備わっている。「内面性の感覚」「日常生活の肯定」「自然についての表現主義的な考え方」である。テイラーに言わせると、問題なのは、近代(その延長にある現代)を支配するリベラリズムや「自然主義」の思想では、自我や主体、人格が「善」(good)から切り離され、わたしたちの欲望や傾向、選択とは独立した「善き生」(good life)の感覚が失われていることである。早い話が、自由な選択による自己責任で、快を求め、不快を避けることが原子(モナド)のようにバラバラになった個々人にふさわしい生き方ということになるのだ。
 このような自我と自我とのぶつかり合いは、内面性の尊重による乾いた、何事にも距離を置く理性による「道具的制御」に基づいて、自己と他者をも手段の地位に貶(おとし)めてしまわざるをえない。その無間地獄のようなエゴイズムの日常世界に倦(あぐ)みながら、漱石は自らの内なる「自然」を小説という形で表現した。それはまさしく「自然の声」として近代的自我の内面的な深さを物語っている。そこには、創造的な想像力と近代的アイデンティティの可能性が宿っている。テイラーは、その可能性を、「それへの愛が私たちに力を与え、私たちが善をなし、善くあることを可能にする」ような「道徳的源泉」へ開いていこうとする。自我は善と結びつけられることで、正しい行いという狭苦しい道徳から解き放たれ、自分の尊厳や価値ある生き方や人生の意味と生き生きとした関連を見いだすことができることになる。
 浩瀚(こうかん)だが決して難解ではない本著は、わたしたちが見失いつつある、望ましい人生の意味に伴う畏敬(いけい)や尊重の感情を取り戻すヒントを与えてくれる。訳者たちの労を多としたい。
 評・姜尚中(東京大学教授・政治思想史)
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 下川潔、桜井徹、田中智彦訳。名古屋大学出版会・9975円/Charles Taylor 31年生まれ。カナダの社会哲学、政治哲学、倫理学者。『今日の宗教の諸相』など。原著は1989年刊。

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