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半分のぼった黄色い太陽 [著]チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ

[評者]斎藤環(精神科医)

[掲載]2010年10月03日

[ジャンル]文芸 国際

表紙画像

■幻の共和国舞台に他者の他者を想う

 見つけた。何を? 「物語」の新大陸を。ナイジェリアに芽吹き、アメリカで育まれ、みごとな大輪の花を咲かせる希代の語り部。彼女はチママンダ(私の神は倒れない)という美しい名を持つ。
 19世紀フランス文学を思わせる重厚な構え。しかし複雑な時制や多視点からの立体的描写、小説内小説の導入などを巧みに操る手つきは、まぎれもなく現代作家のものだ。本作で作者はオレンジ賞を受賞し、映画化が決定している。
 物語の舞台はビアフラ。1967年から3年間だけアフリカに存在し、ナイジェリアに滅ぼされた幻の共和国だ。飢餓大陸アフリカのイメージはここに由来する。本書の題名はその国旗デザインから来ている。
 大学の数学講師・オデニボとハウスボーイのウグウ、美しい政商の双子の娘・オランナとカイネネ、カイネネの恋人リチャードらの日々が描かれる。出会いと裏切り、倦怠(けんたい)と修復、そして嫁と姑(しゅうとめ)の抗争までも。その背景で進行するのは、数百万人が飢餓で死んだ絶望的な戦争だ。
 特筆すべきは細部のみずみずしさだ。例えば、わが愛するカイネネはこんなふうに話す。「オランナって名前はリリカルでしょ、神の黄金という意味よ、わたしの名前はもっと現実的な、神が次になにをもたらすか見ていようという意味」
 アディーチェは講演で「シングルストーリー」の危険性を説いている。それは重大な偏見をもたらす。「アフリカという国」と発言したどこかの州知事のように。「物語は人の尊厳を砕く」が、「打ち砕かれた尊厳を修復する力」も持つ。「いかなる場所にもシングルストーリーなどないと気づいたとき、ひとつの理想郷を取り戻すでしょう」。これは小説の存在意義すらも肯定する、力強い宣言にほかならない。
 人物や物事を一つの側面からのみ描くシングルストーリーに他者はいない。描かれるのはステレオタイプかモンスターだ。思い浮かべてみよう。〈他者が存在しない人々〉を。犯罪者や精神障害者、あるいは〈アフリカ人〉。「彼らの内省なき愚行」というクリシェ。
 他者の他者を想像すること。それが〈狼(おおかみ)〉を〈人間〉に変える、ほぼ唯一の方法だ。戦争を描くより確実に、「他者の他者」を呼び込む方法がひとつある。性愛の葛藤(かっとう)を描くこと、これである。アディーチェは言葉を尽くして、他者たちの国・ビアフラの領土を象徴界に回復した。なんという鎮魂か。
 つい「ナイジェリアの川上未映子」などと呼びたくなるのは、ほぼ同世代で一点集中砲火のような受賞歴が共通するためばかりではない。彼女たちは〈言葉〉に対して、ほとんど不信と区別がつかないほどの篤(あつ)い信頼を寄せている。
 それは〈言葉で何でも語れる〉といった万能感ではない。この不完全な言葉とともに成長しよう、という決意にも似た信頼(ウグウはその体現者)なのだ。
 〈評〉斎藤環(精神科医)
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 くぼたのぞみ訳、河出書房新社・2730円/Chimamanda Ngozi Adichie 77年、ナイジェリア生まれ。作家。19歳で渡米し、大学在学中に小説を発表。03年にO・ヘンリー賞、07年に本書でオレンジ賞を受賞。『アメリカにいる、きみ』

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