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アッシジの聖フランチェスコ [著]ジャック・ルゴフ

[評者]田中貴子(甲南大学教授)

[掲載]2010年09月26日

[ジャンル]歴史 人文 新書

表紙画像


■「私」による聖人像、史料を精査し描く

 世界の観光客が訪れ続けるイタリアの町、アッシジ。風光明媚(ふうこうめいび)な都市は、中世の聖人、フランチェスコゆかりの土地でもある。アッシジのフランチェスコといえば、日本人にもっともよく知られたカトリック聖人の一人ではなかろうか。ジョットのフレスコ画にも描かれた「小鳥への説教」の挿話は有名であるし、1973年公開の映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」をはじめ、その生涯はしばしばスクリーンを通じて日本人の知るところとなった。
 フランチェスコはまた、平和を願い清貧に生きた人物として、マザー・テレサが崇敬したともいわれる。彼が創設した修道会(フランチェスコ会)の活動も、歴史上の知識として知っている人も多いだろう。
 本書は、一般に流布したフランチェスコ像に中世社会や経済の面から迫ってみせる。ヨーロッパ中世史の大家であり、アナール派の代表的研究者である著者が、「私の」フランチェスコ像を4編の論考によって描き出した骨太の書だ。
 フランチェスコが生きた12〜13世紀のヨーロッパは、社会が劇的な転換を迎えた時代であるとされる。著者は、そうした時代に宗教世界だけでなく、都市の俗人との交渉など、社会に大きな影響を及ぼしたのがフランチェスコであると考え、そこに惹(ひ)かれると告白している。
 フランチェスコの伝記や歴史上の意義については、すでに数多くの著作が書かれてきた。しかし、現在知られているフランチェスコ関係の史料には、彼自身の手になるもの以外に後人による伝記や説話の類が含まれている。著者は、それらから「真正の歴史」に根ざしたフランチェスコの姿を読み取ることを宣言しているが、客観的な真正の追求の限界をも示し、「個人的な解釈から自由でない」とも述べるのは首肯できる。
 たしかに、史料上の制限などだけでなく、歴史家とて必ず解釈という行為から逃れられないのだから、「私」という主体を通じてしか歴史を語れないことは明白である。だが、ここで著者はフランチェスコ史料に用いられる語彙(ごい)に注目し、それがどのような傾向を持つか、詳細に調査してゆくのである。
 たとえば、フランチェスコの著作では「神」を呼ぶのに「王」をほとんど使わず、「父」を用いている。これは、彼が理想の社会モデルを家族としていることを意味するという。富や権力を嫌い、貧しい者や病める者、弱き者を敬愛し、平等な社会を希求したフランチェスコの思想が、この例から浮かび上がってこよう。史料の精査がさらに大きな問題に結びついてゆくダイナミックな論は、本書の白眉(はくび)である。
 ただし、著者は近代歴史学の立場を大きく変えることはないし、「訳者あとがき」にあるように、「揺るぎない信頼」を持っているようだ。歴史学の方法が刻々と変化している現代では、その確固たる立ち位置に疑問を投げかけることも必要ではないかと私には感じられた。
 〈評〉田中貴子(甲南大学教授・日本文学)
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 池上俊一・梶原洋一訳、岩波書店・3990円/Jacques Le Goff 24年生まれ。アナール派の中世史家。『中世の知識人』『もうひとつの中世のために』『煉獄(れんごく)の誕生』など。

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