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カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺 [著]ヴィクトル・ザスラフスキー

[評者]逢坂剛(作家)

[掲載]2010年09月12日

[ジャンル]歴史 ノンフィクション・評伝 国際

表紙画像


■ソ連の隠蔽工作、破綻の経緯分析

 第2次大戦のさなか、1943年4月にドイツのラジオ放送は、占領地のスモレンスクに近いカチンの森で、2万5千人にものぼるポーランド将校の、埋葬射殺死体が発見された、と報じた。ドイツはそれを、自軍の侵入以前に同地区を占領していた、ソ連軍の所業だと指弾する。一方、ソ連はドイツこそ事件の張本人で、ラジオ放送は連合国の結束を乱そうとする、ゲッベルス一流のプロパガンダにすぎない、と反論した。
 その後、国際調査団による綿密な調査の結果、遺体は将校を含むポーランドの指導者層で、40年の4月から5月にかけて埋められたもの、と判明した。さらに、処刑方法や遺体の所持品等から、当時その地域を占領していたソ連の犯行、と断定される。しかし、スターリンはその事実を頭から否認し、強硬にドイツ軍のしわざだ、と主張する。
 英米もまた、ドイツとの戦いを優先させるため同盟国であるソ連をあえて糾弾せず、事を穏便に収めようと試みる。その結果、米国のルーズベルトも英国のチャーチルも事実の隠蔽(いんぺい)に腐心するスターリンの片棒をかつぐことになった。
 この大虐殺は、戦勝国の犯罪であるがゆえに、ニュルンベルク裁判でもまともに審議されず、闇に葬られてしまう。ソ連が、ようやく自分たちのしわざだと認めたのは、半世紀後にペレストロイカ、グラスノスチの時代を迎えてからのことだ。それをきっかけに、関係資料の公開が進められ、真相が明らかになった。
 本書は、事件そのものの説明を最小限にとどめ、英米を巻き込んだソ連の長年にわたる隠蔽工作と、それが破綻(はたん)をきたすにいたった経緯の分析に、多くの筆を費やしている。自国のしわざ、と初めて認めたゴルバチョフが、さらに大きな秘密を隠していたことも、容赦なく暴き出す。カチン事件が、独ソ不可侵条約に付された、秘密議定書による欧州分割問題と不可分に結びついているとの指摘も、当を得たものだろう。
 この虐殺は、ナチスのユダヤ人虐殺に匹敵する、異常な事件である。著者は、ユダヤ人の虐殺を〈民族浄化〉、カチン事件を〈階級浄化〉と規定し、両者を区別している。それによって、ポーランドを憎んだスターリンが、その指導者階級の抹殺に走った図式が、よく理解できる。
 従来、この事件を扱った欧米の研究書は多数にのぼる。しかし、翻訳書はきわめて少なく、評者の知るかぎりJ・K・ザヴォドニー著の『カティンの森の夜と霧』(63年、読売新聞社)と、W・アンデルス著の『裏切られた軍隊』(52年、光文社)くらいしかない。中でも前者は、ソ連側の資料にアクセスできず、犯行現場にも行けなかった時代に書かれた著作として、真実に近づいた最良の研究書といえよう。併せて読まれるよう、おすすめする。
 ちなみに、本書は訳者による〈あとがき〉が充実しており、本文を補足して余すところがないことも、書き添えておこう。
 〈評〉逢坂剛(作家)
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 根岸隆夫訳、みすず書房・2940円/Victor Zaslavsky 1937〜2009年 ロシア人の政治社会学者。75年にカナダに移住した。米国やイタリアの大学で政治社会学を教え、専門は第2次大戦後のソ連(ロシア)・イタリア政治関係史。

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