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フェリーニ 映画と人生 [著]トゥッリオ・ケジチ 

[評者]横尾忠則(美術家)

[掲載]2010年09月12日

[ジャンル]アート・ファッション・芸能 ノンフィクション・評伝

表紙画像

■現実に風穴、そして船は行く

 この大冊から抜け出した時、長い長い夢から覚めやらぬままいきなり白昼の大通りに放り出された時のとまどいに似た感覚に襲われながら、〈一体、私とは何者なのだ〉とつぶやくフェリーニの声を耳にしたように思えた。
 彼は「映画と人生」という二つの色の混合色のように何色でもない色の大海原をヒエロニムス・ボスの絵「阿呆(あほう)船」に愚者どもを乗せて想像上の未知の王国を目指したように「そして船は行く」(これ、映画のタイトル)しかなかったのである。
 「そして船は行く」も「アマルコルド」も僕は好きだった。そう、「アマルコルド」という言葉は「ダダ」という言葉が何の根拠もないように、あたかも霊の語る自動書記同様、魔術的な言葉としてフェリーニに取り憑(つ)いたに過ぎない。
 この言葉は「わたしは思い出す」という程度の意であるが、彼の映画は子供の頃の思い出の再現ともノスタルジーともとらえられているが、むしろ彼にとっては誰のものでもない普遍的な人生のビジョンを提示したに過ぎない。
 さらに彼は何も伝えようともせず、「何かのメッセージを込めようとも思わない」のである。この言葉はまるで画家だ。「わたしの映画は文学的でもなく、絵画的なもの」で、「そのエッセンス、スタイル、イデオロギーを表象するのは、光なのです」と芸術至上主義の立場を取る。
 現実に風穴を開けてそこから形而上(けいじじょう)的で超感覚的なリアリティーを引き出す彼の考えは、同じイタリアの画家、デ・キリコの芸術そのものでもある。
 フェリーニの映画は生の祝祭と同時に死とも和解し、彼はしばしば死後の世界の映画化を試み、降霊術に出席したり、常々超自然的な世界に憧(あこが)れながらも、映画の実現には至らなかったが、彼の全(すべ)ての映画はどこかこの物質的現実と分離したもうひとつの境域との間を往来しながら「何者」かであろうとしたのではないだろうか。
 「ここにフェリーニの大いなる未来が始まる」
 評・横尾忠則(美術家)
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 押場靖志訳、白水社・6930円/Tullio Kezich イタリアの映画評論家、脚本家。

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