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一週間 [著]井上ひさし

[評者]江上剛(作家)

[掲載]2010年08月01日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■無名の抑留兵士、権力と闘う勇気


 主人公の小松修吉は、貧乏な農家の生まれだが、篤志家の支援で東京外語と京都帝大でロシア語と経済学を学んだ。その後、共産党員として非合法活動に従事し、逮捕される。牢(ろう)内で転向し、ある男を捜して満州各地を転々とする。捕虜となり、ソ連のシベリア捕虜収容所に。彼はハバロフスクに移され、日本人軍医から脱走の顛末(てんまつ)を聞いて、その記録をまとめるように命じられる。小松は、軍医からレーニンの手紙を預かる。ソ連革命を根底から崩すレーニンの秘密が書かれていた。ソ連軍将校たちはあらゆる手を使い、手紙を取り戻そうとする。だが、小松はこれを利用して捕虜たちの待遇改善を勝ち取ろうと闘いを始める。
 シベリア抑留、非合法活動などと書くと、「どこの国の話?」と言われ、暗い話は嫌だと敬遠されるかもしれない。でも最近、まれにみる、わくわくする小説だ。
 まずは、スリリングな冒険小説として楽しんで欲しい。小松は、絶対に脱出不可能という収容所から自由を得るために知恵を絞る。赤軍将校のずるがしこく、残虐な策略が次々と小松を危機に陥れる。それらを切り抜けたかと思うと、スイカを二つ並べたほどもある乳房を揺らすソ連軍女性将校の誘惑が襲う。
 圧巻は、手紙を渡さなければ、仲間の日本兵捕虜が6人も銃殺刑になってしまう場面だ。小松の決断に彼らの命がかかっている。果たして、一週間の間に小松はソ連軍将校との闘いに勝ち、収容所からの脱出に成功できるのか。もうノンストップで読むしかない。
 次は、シベリア抑留者のノンフィクションとして読むべきだ。小松ら名もなき兵たちはシベリアに置き去りにされ、多くは死に追いやられた。一方、関東軍高級軍人たちはぬくぬくと過ごし、生き残った。しかし真実は、依然、歴史の闇の向こうに隠されたままだ。本当はノンフィクションとして書きたかったのだが、小説の形式を借りざるを得なかったのではないか。関東軍の高級参謀たちを実名で登場させていることにも、その思いを強く感じる。これはエリート軍人に象徴される日本の権力を告発する怒りの書なのだ。
 私は、数ある井上ひさし作品の中でも「父と暮(くら)せば」に、特に感動した。原爆投下後の廃虚の中で孤独な娘、美津江が亡霊の父親と会話を交わす。非日常的な状況での、あまりにも日常的なやりとりが庶民の悲しみ、怒りを浮き彫りにしていた。しかし小松は美津江とは違い、果敢に権力に闘いを挑む。黙っていない。ソ連軍女性将校が、日本人はいつもそのときそのときの風向きを気にしながら生きているのに「あんたは、例の〈日本人の風向きの原則〉に適(かな)わない」と言い、「わたしが初めて出会った新しい型の日本人だわ」と感嘆する。
 井上ひさしさんは、日本人は小松のようにたった一人でも無慈悲な権力と闘う強さを持たねばならないと訴えたかったに違いない。
 〈評〉江上剛(作家)
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 新潮社・1995円/いのうえ・ひさし 作家、劇作家。1934〜2010年。『手鎖心中』で直木賞。『道元の冒険』で岸田国士戯曲賞。『国語元年』『吉里吉里人』『不忠臣蔵』『東京セブンローズ』『ムサシ』など。4月9日に死去。

 

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