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大気を変える錬金術ーハーバー、ボッシュと化学の世紀 [著]トーマス・ヘイガー

[評者]辻篤子(本社論説委員)

[掲載]2010年06月27日

[ジャンル]科学・生物 ノンフィクション・評伝

表紙画像

■生命を育み破壊する窒素の物語

 大気の8割を占める、ありふれた窒素の知られざる顔——。窒素を利用する画期的な方法を開発した2人のドイツ人化学者の苦闘を描いた本書は、文明史に深くかかわる窒素という元素の物語でもある。
 窒素は矛盾に満ちている。生物に不可欠で、肥料として生命を育む一方、それを破壊する爆薬ともなる。その原料となる硝石はかつて、激しい争奪戦の的になった。
 また、大気中にあふれているのに、生物はそのままでは利用できない。のどが渇いても海の水を飲めないのと同じだ。
 「飲む」には窒素を「固定」する必要があるが、自然界で窒素を固定できるのはマメ科の植物の根につく根粒菌などの窒素固定細菌と、稲妻くらいだ。
 20世紀初め、人工的に窒素を固定する、つまり「空気をパンに変える」ことに成功したのが本書の主人公たちである。2人の名から「ハーバー・ボッシュ法」と呼ばれ、肥料の大量生産の道を開いた。人類を飢えから解放し、ノーベル賞も受けた化学の輝かしい成果である。
 本書は、この「歴史上最も重要な発見」のその後を克明に追う。科学者の栄光と悲劇、科学がもたらす光と影、その落差には慄然(りつぜん)とせざるを得ない。
 ユダヤ人のハーバーは毒ガスの開発を指揮し、結局はナチスに追われる。化学企業のトップに上り詰めたボッシュは、その装置がドイツの戦争継続を助けたのではと苦しみ抜き、ともに失意のうちに世を去った。
 今や、自然が固定するのとほぼ同量の固定窒素が彼らの方法を使って生産されているという。私たちの体内の窒素の半分は工場生まれであり、世界の人口の半分はそのおかげで生かされているといっていい。その多くはその方法の生みの親の名前も知らないままに。
 肥料としてまかれた窒素の半分は吸収されず、川から海へ、また大気へと出ていく。放たれた固定窒素が地球環境にとって新たな懸念材料であることもようやくわかってきた。
 科学の力を得た窒素の物語の終章はまだ見えない。
 評・辻篤子(本社論説委員)
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 渡会圭子訳、白川英樹解説、みすず書房・3570円/Thomas Hager 米国の医化学系ジャーナリスト。

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