書評・最新書評

矛盾だらけの禅ー悟りを求めるアメリカ人作家の冒険 [著]ローレンス・シャインバーグ

[評者]横尾忠則(美術家)

[掲載]2010年06月20日

[ジャンル]人文

表紙画像

■戒められ冷たくされてもなお続く

 西洋人が東洋の神秘に憧(あこが)れ始めた60年代、日本人だと見ると禅問答をふっかけてくるアメリカの知識人は多かった。そのことが仏縁になって僕は禅寺に1年間参禅することになった。
 「何しに来られたのか?」
 「悟りに……」
 「人は生まれながらに悟っておる。その上にまだ悟りたいのか」。僕とある老師とのチンプンカンプンの会話だ。
 「まあ黙って座りなさい」。禅は只管打坐(しかんたざ)あるのみ。理屈無用の世界だ。
 本書の著者は作家だが若くして発心し、禅の世界に足を踏み入れた。そして次第に精神の危機に侵されていく。読者の興味の対象は皮肉にもその精神の崩落過程だ。これは禅を経験した者が一度は辿(たど)る道程である。僕はサッサと足を洗ってしまったが、この作家は執拗(しつよう)に食い下がる。彼の師の球童老師はすでに彼の心を見抜いて作家である著者を何度も戒める。
 小説を書くのをやめろ。でないと「頭でっかちから抜けだすことができない」と。何が言いたいかというと、白隠禅師が言うように「一度死ねば真に生きることができる」のだ。「死ぬ」ということはバカになることである。禅はバカになる修行である。僕がつまずいたのもここだった。
 しかし、この著者は小説を捨てることができない。だったら禅から足を洗うしかない。彼は二者択一を迫られる。老師はきっと、禅を小説を書くための駆け込み寺にしてもらいたくないと言いたかったに違いない。やる以上「死ぬ」しかない。つまり禅のアマチュアはいないのだ。禅はプロフェッショナルでなければならないのである。
 日本に帰った老師の後を追って著者は日本にやってくる。そして老師に会うが、老師の一変した態度の冷たさに彼は驚愕(きょうがく)する。何か礼節を欠いたのではと悩みもする。その答えが見つからない。まるで公案を突きつけられたように苦しむ。でもその答えは彼が作家であり続けて犠牲を払おうとしない態度にあるのではないのか。それでも著者の冒険は終わらない。
 評・横尾忠則(美術家)
     *
 山村宜子訳、清流出版・2625円/Lawrence Shainberg 米国の作家。ニューヨーク在住。

関連記事

ページトップへ戻る