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漢文スタイル [著]斎藤希史

[評者]田中貴子(甲南大学教授)

[掲載]2010年06月13日

[ジャンル]文芸

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■漢文の大水脈、日本文学の底に


 「晴耕雨読の毎日だった学生は窈窕(ようちょう)たる下宿の娘にふられ、故郷に帰って緑陰読書の生活をした」。ん? 何かおかしい。
 無粋を承知で現代語訳してみよう。「寸暇を惜しんで勉学する毎日だった学生は、陶然とするほど美しい下宿の娘にふられ、故郷で読書三昧(ざんまい)に世事を忘れた」となる。あれ?
 まるで明治の小説にあるようなこのストーリーは、本書を読んでいて私の頭に浮かんだ作りごとであるが、ここに出てくる「晴耕雨読」「窈窕たる」「緑陰読書」は、現代日本で一般的に知られている意味とちょっと違うのだ。ここでは「晴耕雨読」は「老後は別荘でも買って悠々自適」といった意味ではない。違いの理由は、こうした熟語の多くが漢文に背景を持つからなのだ。
 日本の文献が「漢文文化圏」(「漢字」ではないのに注意!)という、漢文と訓読文の二重性を持つ文化の中に位置づけられることを明らかにした著者が、だからといって漢語を「本来の意味」などと言うはずはない。もっとしなやかな思考と思索によって、昨今はやりの「東アジア文化圏」をはるかに超える文脈の世界を描き出している。
 従来、日本語・日本文学における中国の影響の研究は大いになされており、古代から近代に至る日中(和漢)比較文学の系譜が存在している。中でも大勢を占めるのが日本文学の出典として漢文文献を指摘するものだ。実際に文物の往来があったので影響はないわけがないが、しかし、危険なのは出典探しに明け暮れて大きな流れを見失うことであった。
 著者は本書3章「漢文ノート」の「下宿の娘」の末尾で、「明治小説の外側に漢文学を置いて」影響とか受容を云々(うんぬん)する行為の不毛さを述べている。複数のテクストを結ぶもっと大きな漢文の水脈があることがむしろ大切なのだ、と。そこにはテクストの生成と変容にかかわる問題が横たわっているだろう。
 こうしたことが、実に姿形(スタイル)のよい文体(スタイル)で書かれる。話題も硬軟取り交ぜ、緩急自在。まさに佳人の惚(ほ)れる才子ぶりが発揮された一書なのである。
 評・田中貴子(甲南大学教授・日本文学)
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 羽鳥書店・2730円/さいとう・まれし 63年生まれ。東京大学准教授。『漢文脈の近代』など。

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