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韓国映画史ー開化期から開花期まで [責任編集]キム・ミヒョン

[評者]姜尚中(東京大学教授・政治学、政治思想史)

[掲載]2010年06月06日

[ジャンル]アート・ファッション・芸能 国際

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■なぜメロドラマ的哀調を帯びるか

 百年以上に及ぶ韓国映画史を10の時期に区分しながら、それぞれの時代の映画の特徴を論じてみたら、きっと面白い読む事典ができるに違いない。そんな意図から生まれたのが本書である。その中でとくにわたしの興味をひいたのは、メロドラマ的な「新派映画」の項目である。というのも、生まれて初めて観(み)た韓国映画が、1968年のチョン・ソヨン監督の「憎くてももう一度」だったからだ。
 それにしても、韓国映画はどのジャンルであっても、なぜこうもメロドラマ的な哀調を帯びているのか。わたしの中にずっとくすぶり続けてきた疑問だ。だが、それも本書を読んで氷解した。メロドラマ的な感傷は、植民地と内戦、分断と軍政という、過酷なまでの歴史によって強いられた二律背反的な感情の発露だったのだ。他律的であるしかない主体が世界に対して抱く無力感と混乱、葛藤(かっとう)と煩悶(はんもん)。このアンビバレンスは、カンヌ国際映画祭で高く評価されたイ・ドゥヨン監督の「女人残酷史 糸車よ、糸車よ」(83年)やチョン・ジヨン監督の「南部軍」(90年)、まだ「外国映画が劇場街を占領していた」93年に公開され、韓国映画の歴史的な事件とも言われたイム・グォンテク監督の「風の丘を越えて〜西便制」。あるいはパク・チャヌク監督の「JSA」(00年)や1千万人以上の観客を動員したカン・ジェギュ監督の「ブラザーフッド」(04年)などにも、脈々と受け継がれている。
 ただし、そのような感傷的な悲哀の情は、他方では、「韓国映画の理念を最初に提示した映画」であり、韓国映画史の金字塔とも言うべきナ・ウンギュ監督の傑作「アリラン」(1926年)がそうであったように、現実を直視する力強いリアリズムの精神を形影相伴っている。その精神は、今でも、若手監督の作品を含む実に多くの作品に流れているのである。
 このような韓国映画史に流れる二律背反のダイナミズムを知れば、「韓流」もまた、単なる一過性の徒花(あだばな)ではないことがわかる。本書を読めば、韓国映画が一層、面白くなるはずだ。
 評・姜尚中(東京大学教授・政治思想史)
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 根本理恵訳、キネマ旬報社・4410円。編者は韓国の映画振興委員会研究委員。

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