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高く手を振る日 [著]黒井千次

[評者]江上剛(作家)

[掲載]2010年05月23日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■ときめきに満ちた高齢者の純愛

 主人公の浩平は古希を過ぎた男。妻に先立たれ、未来のない行き止まり感に苛(さいな)まれている。古いトランクを片付けているとき、大学時代に同じゼミだった重子の写真を見つける。一度だけ唇を重ねたことがある。
 偶然にも、娘から夫の同僚の母親が重子であることを教えられる。浩平に会いたがっているらしい。娘は、浩平の自宅の電話番号を教えると言う。「七十を越す婆(ばあ)さんだろ」と悪態をついたものの、重子からの電話を待ち続け、やがて、はがきの交換、消息を尋ね合う電話と進み、再会を果たす。
 重子に強く勧められ、初めて携帯電話を持つ。メール操作を覚え、やっとの思いで重子にメールを送る。漢字変換がうまくいかない。すべてひらがなだ。〈はやくあいたい〉。この、ひらがなメールの妙な生々しさは、いったいどうしたことだろうか?
 ある日、重子が突然、自宅に訪ねて来る。老人ホームに行くことを決め、別れを告げるためだ。目の前のたったひとつのもの、重子を奪われたくない気持ちが強くなる。「私達は茶飲み友達ではない」「ない。絶対にない」。浩平は、重子に唇を近づける。学生時代の思いがよみがえる。
 老人を主人公にした恋愛小説は社会問題のテーマに走りがちで、たいてい暗く陰湿だが、本書は違う。古希を過ぎてもまだまだこれほど清純で、美しく、ときめきと緊張感に満ちた恋愛ができるのだ。
 年齢を重ねることは寂しい。しかしこんな恋愛もできると思えば、希望がある。高齢化とは、行き止まりに向かっているのではなく、重子に再会した時の「途中だよ、長い長い途中だよ」という浩平の言葉通りなのだろう。タイトルは別れの際、重子が「私に見えるように、(手を)大きく振ってね」と浩平に頼むことに由来しているが、作者が同世代の読者に贈るエールなのだ。
 ラブレターから家庭電話、携帯電話、メールという恋愛ツールの移り変わりをあらためて知るのも本書の楽しみだ。
 評・江上剛(作家)
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 新潮社・1470円/くろい・せんじ 32年生まれ。作家。『群棲』『カーテンコール』『一日 夢の柵』など。

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