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長塚節「土」の世界 写生派歌人の長篇小説による明治農村百科 [著]山形洋一

[評者]高村薫(作家)

[掲載]2010年05月16日

[ジャンル]文芸 社会

表紙画像

■比類なき自然の描写、再評価

 『土』は、島崎藤村と同じ自然主義文学の作品だが、描かれた世界が極貧の農村の四季とその生活風土であったためか、農民文学扱いされ、同時代にはあまり評価されなかった。けれども朝日新聞の連載小説として世に問われて百年、『土』を愛してやまない日本人は、評者を含めていまもちゃんと存在する。
 驚くことに、著者は文学者ではない。主に国際技術協力の任にあった農学博士である。そんな人がある日偶然、『土』を読み、冒頭の冬の西風の文章表現に鳥肌を立てる。日本人にとって『土』を読むというのは、まさにそういう経験である。いまはない百年前の関東平野の寒村に吹きすさぶ風を、いきなり行間に体感してしまうのである。
 さて筆者は、いかにも研究者らしい手つきで作品世界を綿密に調査、分類する。たとえば農機具を含めた生活道具、住居、衣服、食などのモノから見た明治末期の貧農の生活目録。またたとえば小作と地主の関係や、婚姻の形態などの明治の村社会の実態研究。そしてさらに、近代化の波が押し寄せるなか、人びとの価値観が揺らいでいた過渡期の農村の実像などなど。それは、筆者の目指した「明治農村百科・西茨城編」にふさわしい子細さであり、長年の『土』の愛読者をも刮目(かつもく)させるに十分な内容であるが、本書はもちろんそれだけでは終わらない。
 『土』は、自然の風物を描きだす日本語表現において実に比類ない小説であり、四季のさまざまな描写こそ『土』の醍醐味(だいごみ)だからである。そこで筆者は、正岡子規の門弟だった節の短歌と比較するかたちで、『土』から春夏秋冬の描写を抜き出し、短歌では描き切れない自然の大きな時間と空間が、節をして小説の表現へと走らせたのではないかと思いを巡らせる。
 冬の夕暮れ、痩(や)せこけた雑木林が続く台地に西風の塊が打ちつける風景で『土』は始まる。そこを行くのは、土埃(ぼこり)にまみれて艶(つや)も失(う)せた髪をした貧農の女である。そう、流行(はや)りの3D映画でもけっして描けない、百年前の農村風景そのものに、私たちは『土』で出会うのである。
 評・高村薫(作家)
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 未知谷・2625円/やまがた・よういち 46年生まれ。農学博士(応用昆虫学)。『おもしろく学ぶネパール語』。

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