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トレイシーー日本兵捕虜秘密尋問所 [著]中田整一

[評者]保阪正康(ノンフィクション作家)

[掲載]2010年05月02日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■「人間」として接し、情報を引き出す

 長年、太平洋戦争の史実検証にあたってきたが、ときに奇妙な事実に出会った。ガダルカナル戦で捕虜になった日本軍兵士が、戦後に日本に戻るや氏名を変え隠れるようにして生きた。やはり捕虜となった海軍士官が収容所時代の体験を決して口にしなかった。なぜだろうという私の疑問は、本書によって氷解した。
 アメリカ軍の捕虜尋問システムは高度な機械技術を用い、人間心理の分析を通して、機密情報も容易に入手する。それを精査してすぐに作戦行動に移す。昭和19年末から始まった日本本土爆撃はまるで日本の軍事施設や航空機製造工場がどこにあるかを知っているかのように的確に攻撃し、日本の軍事指導者や国民に戦争の残酷さを教えた。本書の冒頭には皇居の地図があり、天皇がどこで政務を執っているか、どの建物で生活しているかなど、すべてアメリカ側は把握していたとある。捕虜となった近衛兵が尋問に詳細に答えたのであろう、きわめて正確だ。
 こうした有用な情報を得るためにアメリカ陸海軍は1942年12月にカリフォルニア州バイロンに秘密捕虜尋問センター(暗号名トレイシー)を開設した。トレイシーは45年7月までの2年7カ月間、日本語に堪能なアメリカ軍将校が各地で捕虜になった日本軍将兵の中から重要情報をもつ者を選抜してこの地に連れてきて尋問したという。総数2342人の捕虜が1万387回の尋問を受け、1718件の報告がワシントンに送られた。もとよりこの内容は当時も戦後も一切秘密で、とくに日本側の捕虜は後ろめたさもあり決して洩(も)らさなかった。著者は、今はワシントンの国立公文書館で公開されている内部文書に目を通し、現地を訪ね、一部関係者の取材を含めて、トレイシーの実態を人道上の視点をもちながら読者の前に示した。その労を多としなければならない。
 日本軍将兵がなぜ機密情報を証言するに至ったか、その心理はどのように変化したか、著者は「時代後れの認識の軍律」戦陣訓などに因を求めている。トレイシーでの尋問第1陣の海軍士官は自らの戦争観を明かすことで尋問に心を開いていく。ゼロ戦の操縦士は実際にアメリカ軍の空母の内部を見せられて日本との戦力比を口にし、そしてゼロ戦の構造も明かしていく。航空機製造工場の内部について知る陸軍上等兵はスケッチと証言で詳細に伝える。そういう情報は偵察機で確認され、まもなくその工場は精密爆撃されている。
 尋問官たちは威圧、暴力は一切用いない。その代わりに「人間」として接しその悩みを共有する。もとよりそれはテクニックのひとつだが、それを承知しながら尋問にこたえる日本兵は心底では戦争終結こそ日本のためという確信を固めていったのだ。著者の視点は、それを諒解(りょうかい)し、そして彼らの側に立って分析を進めているので読後は捕虜を裏切り者とは受け止めまいとの感想がわく。日本の軍事機構に顕著な「人間不在」が見事に逆手にとられていたのだ。
 〈評〉保阪正康(ノンフィクション作家)
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 講談社・1890円/なかた・せいいち 41年生まれ。NHKに入り、現代史を中心としたドキュメンタリー番組の制作に携わった。著書に『満州国皇帝の秘録 ラストエンペラーと「厳秘会見録」の謎』『盗聴二・二六事件』など。

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