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日本政治思想史 十七〜十九世紀 [著]渡辺浩

[評者]奥泉光(作家)

[掲載]2010年04月25日

[ジャンル]歴史 政治 人文

表紙画像

■江戸〜明治維新の思想、鮮やかに

 書名からは専門的な学術書のように思えるだろうが、全然違う。著者も述べるように、専門知識を前提にしない一般向きに書かれた概説書である。というと今度は、無味乾燥な教科書が想像されるかもしれないが、それも違う。十七世紀から十九世紀、ほぼ江戸時代から文明開化期までの、日本の政治思想を活(い)き活(い)きと描き出した本書は、概説書のイメージなどは遥(はる)かに飛び越えた、本格歴史エッセーと呼ばれるべきだ。
 江戸期の政治思想だけでも論じられるべき対象は膨大である。それをどう論じるか。測量に喩(たと)えるならば、広大で複雑な地形を測量するには、いくつか測地点をマークし、それらを繋(つな)いで全体像を描いていくしかないわけで、だから測地点の選び方にこそ観測者の腕はある。著者はそこで抜群のセンスを見せてくれる。たとえば、江戸期の政治思想の中核をなした儒学、ことに朱子学の解説に本書は一章を費やしている。これが素人にはありがたい。一個の巨大な体系をなし、理解が容易ではない朱子学について、これほどシンプルで明快な解説はそうはないだろう。読者はここを測地の基準点にして地形を眺望できる。
 あるいは、単に政治思想にとどまらず、武士をはじめ各階層の生活感情や、社会制度、性風俗、サブカルチャーといった事柄への言及も豊富で、これら経済史や社会史の観点を導入しつつ叙述を進める方法は、政治思想が人間の生の全体に関(かか)わる以上、当然ではあろうが、思想史の複雑な地形を明瞭(めいりょう)な輪郭とともに浮かび上がらせるのに益すると同時に、徳川支配下の政治システムや明治維新に新たな光を当てることにもなった。思想家の事蹟(じせき)や構想をただ並べただけの凡百の解説書から、本書を遠く引き離す所以(ゆえん)である。
 その一方で、伊藤仁斎、新井白石、荻生徂徠、安藤昌益、本居宣長、海保青陵、福沢諭吉、中江兆民といった思想家たちの突出した個性が無視されるのではない。むしろ測地点に選ばれた彼らの個性は、長くない叙述のなかで、驚くほど魅力的に伝えられる。実に鮮やかだ。
 評・奥泉光(作家・近畿大学教授)
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 東京大学出版会・3780円/わたなべ・ひろし 46年生まれ。東京大学教授。『近世日本社会と宋学』など。

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