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古書の来歴 [著]ジェラルディン・ブルックス

[評者]鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

[掲載]2010年03月28日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■修復が明かす500年

 「紙の本」が無くなると言われる時代に、この稀覯(きこう)書を巡る歴史ミステリーはあえて書かれた。紙から電子媒体への移行は従容と受け入れるつもりの私だったが、やがてこんな小説も成立し難くなるかと思ったら、俄(にわか)に無念の思いが湧(わ)いてきた。それほどに本書は、本を手にする愉悦、いうなれば紙の誘惑にみちている。
 15世紀のスペインで作られ、紛争で行方の知れなかった細密画入りの禁断の「ハガダー」が、サラエボで発見される。ハガダーとは出エジプト記を語り伝えるユダヤ教の聖典。セルビア人勢力によるサラエボ包囲の爆撃下、この本を命がけで救ったのはイスラム教徒の学芸員だった。そんな所にも、多民族・多宗教が混交し、幾多の(被)支配と戦いを経てきたこの土地の歴史がすでに浮き彫りにされているだろう。ハガダーの羊皮紙に付着した昆虫の羽、海水の塩、ふしぎな色の動物の毛、ユダヤ教徒のワインの染みに混入しているはずのない物質。これらはなにを意味するのか。留め金の銀細工はなぜ消えたのか? 女性鑑定家による緻密(ちみつ)な修復作業が進むうちに、本はそのページ中に封じこめた500年の歴史と人々の秘密を冗舌に語りだす。本に降りかかったと覚しき異端審問、焚書(ふんしょ)の危機、ナチスの迫害、紛争……。鑑定家は出来事の輪郭しか知りえないが、読者にはそれぞれの細かい経緯が迫真の物語として伝えられる。さらには鑑定家と実母の関係、男友だちとの繋(つな)がりの中に、重い生命倫理の問題までが挟まれ、読みごたえたっぷりだ。
 ハガダーは誰によって書かれ、誰の手に渡り、どんな人々によって守り伝えられてきたか。それが明かされていくスリルは古書ミステリーならでは。特定の著者をもち、人に所有され、時の経過や空間移動のために変容や損傷を被る——ああ、本とはそういう生々しいものだった! 読後にしみじみと思う。汚れや傷やときには罪にさえまみれた物体の迫力、つまりデジタルの「履歴」とは違う「来歴」の重みがこの小説をこんなに面白くしているのだ、と。
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 森嶋マリ訳、ランダムハウス講談社・2415円/Geraldine Brooks 豪生まれ。ジャーナリスト・作家。

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