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明日をどこまで計算できるか?―「予測する科学」の歴史と可能性 [著]デイヴィッド・オレル

[評者]尾関章(本社論説副主幹)

[掲載]2010年03月21日

[ジャンル]科学・生物

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■新鮮な予測懐疑論、縦横無尽に

 明日がどうなるか、それがわかったらどうなることか。読み終えてそんな思いを抱いた。
 著者は、科学の未来予測志向を跡づける。原点はピタゴラス。「ピュタゴラス学派にとって、数は単に予言するための手段ではなかった。それは人間の理性と自然の仕組みを結びつけるものだった」。近代科学もこの流れを受け継いだ。
 一石を投じたのは19世紀末のポアンカレだ。扱う物体を三つにするだけで予測が難しくなることを示した。出発点のわずかな違いが行く末を左右しかねないというカオス科学の源流だ。「時計仕掛けのような宇宙像は粉々に砕け散ってしまった」
 この本が新鮮なのは、カオス論の先に踏み込んだことだ。
 予測のために物事を近似式で表すとき、その近似の仕方しだいで結果は大きく揺らぐ。この「モデル誤差」はカオスよりも見過ごせないと著者はみる。それは「自然よりも人間の知性のほうが優れている」というおごりを戒め、私たちに「何ができないかを明らかにする」。
 その予測懐疑論は縦横無尽。世紀の境目を風靡(ふうび)した「市場」や「遺伝子」にも向かう。
 たとえば、市場には「大勢の合理的な人々」がかかわるとみる「効率的市場仮説」に対する批判。たまたま、ちょっと多く客を集めたレストランがどんどん繁盛するといった社会力学を無視している、と断じる。
 生物界も、遺伝子がすべてを仕切るわけではない。受精の瞬間の偶然、生後の環境……。「予測不可能な未来に対応する唯一の道は予想外の自分をつくりだせるようになること」という生物学者の卓見が引用されるが、これも目からウロコだ。
 温暖化の予測にも批判的だが、世の「懐疑論者」とは距離を置く。数理計算の試みは「迫りくる危機を指摘し、予測不可能な世界で針路を決めるよすがとなるかもしれない」という。
 先が読めない世界は悪いことばかりではない。「決定論に従う機械論的システムとは違い、私たちには選択肢がある」
 明日はわからない。生きることの妙味もそこにあるのか。
     *
 大田直子ほか訳、早川書房・2520円/David Orrell 62年生まれ。カナダ出身の数学者、科学ライター。

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