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数学は最善世界の夢を見るか?―最小作用の原理から最適化理論へ [著]イーヴァル・エクランド

[評者]瀬名秀明(作家)

[掲載]2010年03月14日

[ジャンル]科学・生物

表紙画像


■私たちとこの世界、なぜこうあるのか

 あなたはテッド・チャンという作家の短篇(たんぺん)小説「あなたの人生の物語」をすぐに知るだろう。一九九八年に発表されたこの短篇の主人公は言語学者。彼女は地球に飛来した宇宙人とのコミュニケーションを通して、彼らの言葉を解読する任務を与えられる。彼女は過去形や現在形だけでなく未来形の文章を織り交ぜながら、あなたへ事の始終を物語る。
 宇宙人の言語は独特だった。彼らはひとつの文章を現代アートのように二次元の一筆書きで表すのだ。私たち人類は単語を区切り直線的に文字列を連ねてゆく。この宇宙人のように名詞も動詞も副詞も一枚の紙の上に、まるで最初から構図が決まっているかの如(ごと)く描き出す知性体がいたら、彼らはどんな思考体系を持つだろう。未来までも先に見通すような、そんな世界認識で語るのではないか。主人公の女性は宇宙人の言語を調査するうちに彼らの認識を体得してゆく。やがて自らもそのように世界を見て、これから生まれる未来のあなたに語りかけてゆく。
 なぜ私たちの世界はこのようにあるのだろう? 神ないし物理法則がこの宇宙をつくったのだとして、ではいま私たちが生きるこの世界は最善の世界なのか? 外交官と哲学者の両親の元に生まれた数学者は、十年前にフランスで刊行した本書において、数学書や哲学書だけでなく『デューン』『ソラリス』まで言及し、私たちとこの世界の「最善」とは何かを探求した。流行(はや)りの科学コミュニケーションの筆致でもなければ数学の歴史書の趣でもない。その読後感は文芸作品に似ている。
 もしこの世界が生まれるべくして生まれたのなら、私たちの社会行動や倫理観さえ最善のものとして設計されたのだろうか。ガリレオが振り子の原理で時を測って近代科学が誕生し、最善世界の理(ことわり)は神から物理法則へと移った。著者はガリレオの夢から書き起こし、デカルト、フェルマー、モーペルテュイ、ポアンカレらが世界をいかに捉(とら)えようとしてきたかを綴(つづ)る。作者は彼らの文章を図式と共に引用する。それらを見て読むことは歴代の数学者たちの心へ入り込んでゆくような濃密な体験だ。
 チャンの短篇には本書と同様の図が登場する。光は空中から水中へ入るとき屈折するが、その経路は光がゴールに最速で到達する角度となる。なぜ光は「最小作用」がわかるのか? まるで光が未来を道徳的に予見しているようだ。かつて数学者はこの最小作用の原理で世界の最善を解き明かそうとした。作者は近年の数学の成果でもって「最小」という言葉に縛られた私たちの認識を導き、新しい世界観を提示してゆく。
 最後に作者が辿(たど)り着くのは私たちの合理的な意思と勇気だ。泣きはしないが、胸に迫るものがあった。ちょうどあなたがこれからチャンの短篇を読むときのように。あなたは想(おも)う、もし十年前に本書が邦訳されていたら日本のSFは少し変わっただろう。だがあなたがこれから見る夢は確かに未来のSFを変えるのだ。
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 南條郁子訳、みすず書房・3780円/Ivar Ekeland 1944年パリ生まれ。70年から2002年までパリ第9大学を中心に数学科の教授を務めた。03年からカナダのブリティッシュコロンビア大学教授、パシフィック数理科学研究所所長。

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