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パララックス・ヴュー [著]スラヴォイ・ジジェク

[評者]柄谷行人(哲学者)

[掲載]2010年03月07日

[ジャンル]人文

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■「視差」戦略的に全面的に再編成

 カントは『純粋理性批判』で、たとえば、「世界には始まりがある」というテーゼと「始まりがない」というアンチテーゼが共に成立することを示した。それはアンチノミー(二律背反)を通してものを考えることである。しかし、カントはそれよりずっと前に、視差を通して物を考えるという方法を提起していた。パララックス(視差)とは、一例をいうと、右眼で見た場合と左眼で見た場合の間に生じる像のギャップである。カントの弁証論が示すのは、テーゼでもアンチテーゼでもない、そのギャップを見るという方法である。実は、そのことを最初に指摘したのは、私である(『トランスクリティーク——カントとマルクス』)。それを読んだジジェクは、本書において、戦略的なキーワードとして、パララックスという語を全面的に使用した。といっても、たんに言葉を取り入れただけである。本書は、その語を使って、彼がすでにこれまで書いてきた事柄を再編成したものだといったほうがよい。彼自身が本書を「代表作」と呼ぶのは、そのためである。
 私がカントのパララックス的把握を重視したのは、それによってヘーゲルによる弁証法的総合を批判するためであった。しかし、ジジェクは、ヘーゲルにおける総合(具体的普遍)にこそ、真にパララックス的な見方がある、したがって、私のヘーゲル観は的外れだ、というのである。それに対して、私は特に、反対しない。私のカントが通常のカントと異なるのと同様に、ジジェクのヘーゲルも通常のヘーゲルではないからだ。ヘーゲルを読んだからといって、彼のような見方が出てくるわけではない。また、彼のような考え方は、必ずしも彼がいうラカンの精神分析から来るものでもない。私の知るかぎり、彼に最も似ているのは、ドストエフスキーである。テーゼとアンチテーゼの両極をたえず目まぐるしく飛びわたる、その思考においてのみならず、その風貌(ふうぼう)、所作、驚異的な多産性において。
 彼は本書で、政治経済から自然科学におよぶ広範な領域に、パララックス・ヴューを見いだした。「光は波動である」と「光は粒子である」という両命題を認める量子力学はいうまでもない。本書で最も興味深いのは、近年急速に発達した、脳科学や認知科学に対する考察である。通常、これに対しては、意識(精神)は脳と異なる次元にあるといった、人文科学的な批判がなされる。しかし、ジジェクはむしろ、脳科学や認知科学の成果を肯定する。その上で、そこにパララックスを見いだすのである。たとえば、「意識」はニューロン的なものと別次元にあるのではなく、ニューロン的なものの行き詰まり(ギャップ)において突然あらわれる、という。こうして、ジジェクは、現象学や精神分析といった人文科学的な観点に立つかわりに、現在の認知科学そのものの中に、ドイツ観念論(カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)が蘇生している、と考えるのである。
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 山本耕一訳、作品社・7140円/Slavoj Zizek 49年生まれ。哲学者・思想家。スロベニアの大学で哲学を学び、パリ第8大学でラカン派精神分析を学ぶ。最新の邦訳に『大義を忘れるな——革命・テロ・反資本主義』(青土社)。

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