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時間のかかる読書―横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず [著]宮沢章夫

[評者]鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

[掲載]2010年02月07日

[ジャンル]文芸

表紙画像


■ああ!すがすがしいまでの停滞

 すばらしい! ロラン・バルトも言ったではないか。一心不乱に読み通すだけが読書ではない。本の面白さに刺戟(しげき)され「顔をあげながらする読書」もあると。本書の著者は、原稿用紙50枚の短編『機械』を11年にわたって脱線と停滞を繰り返しながら読み、読書日記を連載し続けた。
 「機械」の舞台は昭和初めのネームプレート製作所だ。町工場とはいえ、先進の機運に溢(あふ)れた場だったろう。主な登場人物は粗忽(そこつ)者の工場主、家の主婦、先輩職人の軽部と後から入った屋敷、語り手の「私」。軽部は「私」を間者と疑い、「私」は主人を狂人と疑い、軽部の人間性を疑い、屋敷をスパイと疑う。改行が少なく、「てにをは」が時々脱臼しているような文体には、異様な圧迫感がある。この息苦しい舞台がじわじわと「ねじれた空間」になっていくのだが、その過程を著者も一字一句おそるべき猜疑心(さいぎしん)で読みこむ。「あるとき」とは、どの時だ。「それにしても」とは、どれにしてもだ。小説における「省略」とは、「改行」とは、「時間」とは何だ。ありとあらゆることを疑(うたぐ)り、再考させるものが「機械」にはある(らしい)。そうして「疑う視線の細密さ」をあぶりだす読解のもと、「機械」は時に狂人日記になり、いちご大福になり、カルシュームの心になる。軽部は「(倒れた)私の顔をアルミニュームの切片(きれはし)で埋(うず)め出し、その上から私の頭を洗うように揺(ゆす)り続ける」というけったいな制裁に及んだりする。悲劇なんだが喜劇なんだかも分からない。
 時代の先端機械=テクノロジーが与えるものとは何か。例えば、効率、生産性。しかし小説「機械」とその読書日記にあるのは、非効率と非生産性、清々(すがすが)しいまでの停滞だ。合理性に対し非合理性、分明に対し不分明、有意義に対し無意味、信頼に対し不安。非・不・無のつくもの、是すなわち人間ということであり、文学ということである。「機械」という小説は、世界を怪しむための装置なのではないか? ということを本書は結局示したのではないか?
 読者よ、すべてを怪しめ。でもって、ぐずぐずしよう。
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 河出書房新社・1680円/みやざわ・あきお 56年生まれ。劇作家、演出家、小説家。著書に『牛への道』ほか。

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