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親鸞と学的精神 [著]今村仁司

[評者]高村薫(作家)

[掲載]2010年02月07日

[ジャンル]人文

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■人知を超えた無限へ哲学的接近
 一九八○年代、ポスト構造主義によって解体された形而上学(けいじじょうがく)の体系知の一部がインド哲学や仏教へ向かったのは自然な流れだったのであろう。仏教は徹底した認識論の体系をもち、そこからその有限の人知を超えて無限へと接続してゆく。著者もそうして無限=仏への哲学的接近を先駆的に試みた一人である。
 さて、ある言説を「学」として立てることが可能になるのは、その言説が論証を伴っているときである。はたして著者は『教行信証』をそういう学的テキストであるとし、親鸞が自身の宗教命題を論じた過程を再構成するかたちでの読解を試みる。従ってそれは当然、浄土門の仏教者たちの伝統的な理解とは趣を異にすることになるが、一つの巨大な思想に接近する手法において、学的精神が宗教的信に劣るわけではないだろう。
 周知のとおり親鸞は、有限のロゴスしかもたない人間が自力でそれを超越することの不可能性の認識に立って、阿弥陀の本願への帰依を説き、念仏は必ず人を浄土往生させるとした。論証されなければならないのは、この命題の正しさである。なぜ念仏称名(しょうみょう)なのか。原理的に語り得ない無限の領域について、なぜそんな断言ができるのか。
 まず、釈迦の覚醒(かくせい)(悟り)という真なる絶対命題がある。次に、念仏という身体行為を経てある全身の直観が一気に有限を飛び越える瞬間があるとする。「我」でしかあり得ない凡夫が自力を離れ得るとしたら、そうして忽然(こつぜん)と離れる以外になく、それはまさに不可思議な力が働いた証(あかし)である以外にない。かくして有限を無限に接続させる原理として阿弥陀の回向(えこう)を据えた親鸞の論理に、著者は学としての精神を読み解くのである。
 ところで、我執を離れがたい人間の存在そのものを悪と捉(とら)え、己が悪を知る者こそが救われるとした親鸞の思想は、現世の否定ではない。世俗の生がすでに阿弥陀の回向であることも、著者は強く指摘する。本書は、親鸞の思想を社会哲学として再読する試みでもあり、現代人が理知をもって仏教を知るための良き入門書となっている。
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 岩波書店・2940円/いまむら・ひとし 1942〜2007年。社会哲学者、思想史家。本書は絶筆。

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