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フランケンシュタイン・コンプレックス/人間になるための芸術と技術 [著]小野俊太郎

[評者]苅部直(東京大学教授)

[掲載]2010年01月31日

[ジャンル]人文

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■怪物生む技術と人文学の想像力

 英文学から出発して、多彩な活動をくりひろげている文芸評論家、小野俊太郎の本が二点、ほぼ同時に出た。隠れファン(?)としては喜ばしいかぎりである。
 一方はメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を糸口に、恐怖小説とSF映画を扱った著作であり、他方は人文学の現代における意味を正面きって論じた本。かけ離れた主題のように思えるが、二冊を並べるとその関連が見えてくる。
 前者の副題が「人間は、いつ怪物になるのか」(並べて表紙に印刷された英文を訳せば「何が人間を怪物に変えるのだろうか」)で、後者の表題では「人間になる」ことを掲げている。まずこの趣向に、にやりとしてしまう。
 もともと怪物は、古い伝説や物語のなかでは、人間の世界とかけ離れたドラゴンや巨人であり、他方でそれを退治するのも、常人とは異なる英雄であった。これに対し、近代における自然科学の発展が、人間が怪物を生みだすことを可能にする。しかもその怪物は、外見ではまったく人間と同じか、あるいは透明であるため所在を見きわめられない。
 このように、人間と怪物との境界が曖昧(あいまい)になった状態を扱った小説が、『フランケンシュタイン』や、H・G・ウェルズによる『透明人間』であると小野は位置づける。科学技術のいたずらな肥大が、人間の存続や理性による共存を脅かしてゆく。この問題は、核兵器や生殖技術をめぐって、いま議論され続けているが、十九世紀の恐怖小説が、すでに先どりして扱っていたのである。
 また、目に見えない監視のネットワークが社会にはりめぐらされる他面で、社会を覆そうとする不穏な存在が蠢(うごめ)いている状況や、遠い異文化の担い手が混在するようになったことがもたらす不安。そうした主題も、やはり『透明人間』とブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』に見られるというのである。すでにおなじみの内容と思っていた古い小説が、いまの社会を考えさせる道具として迫ってくる。
 テクストを改めてじっくり読み直す営みを通じて、その新しい意味を見いだしてゆくこと。『人間になるための芸術と技術』では、そうした過去と現在とを横断する想像力を、人文学が培ってきたのだと指摘している。それは、小説と美術と映画といったような、異質な分野の間に通底する発想を読みとったり、不確かな現実のなかから将来像を描きだしたりする思考力とも、つながってくる。
 いまさら人文学の意義を説くなんて時代遅れではないか、と思う人もきっといるだろう。しかし、そう感じてしまうこと自体、社会が実務と技術ばかりを偏重した結果、ヒューマニティーズに触れることで「人間になる」やり方を見失わせたことの表れなのである。そして、『フランケンシュタイン・コンプレックス』の軽快な語り口が示すように、「人間になる」ことは、とても楽しい。
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 『フランケンシュタイン・コンプレックス』青草書房・2205円/『人間になるための芸術と技術』松柏社・1995円。おの・しゅんたろう 59年生まれ。文芸評論家。著書に『〈男らしさ〉の神話』『モスラの精神史』など。

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