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狙われたキツネ [著]ヘルタ・ミュラー

[評者]阿刀田高(作家)

[掲載]2010年01月24日

[ジャンル]歴史 文芸

表紙画像

■過酷な密告社会の日常を詩的に

 ヘルタ・ミュラーはルーマニア生まれの女性作家、2009年のノーベル文学賞の受賞者である。本書はその代表作の一つと見てよいだろう。
 ルーマニアはかつてソ連の影響下にあってもっとも厳しい思想統制の敷かれた国である。1989年の冬、市民の暴動を機に革命が起こり、チャウシェスク大統領の死刑を経て新しい体制への移行を実現させた。本書はこの時期の庶民の日常を綴(つづ)った小説であり、いま述べた社会状況について多少の理解がないと読みにくい。
 庶民には過酷な窮乏生活、密告の横行、上層部だけが贅沢(ぜいたく)を享受し、下っぱは下っぱなりに職権をちらつかせ、立場の弱い女性にはスカートの下のサービスを求めたりする。こんな状況が小学校教師のアディーナを中心に綴られていく。
 筆致はけっして糾弾ではなく日常をそのままに、ときには詩的に捕らえて、さりげない。ゴキブリと一緒に暮らし、鉄くずまみれになり、硬い新聞紙で尻を拭(ふ)き……うんざりする生活が描かれているが、嫌悪感を強く誘うものではない。ポプラは空の熱気を切り裂く“緑のナイフ”であり、経血は“スイカの血”であり、ドナウ川に浮かぶアザミの綿毛は“国外逃亡の途上で撃たれた死者”の枕を思わせ……大人のメルヘンのように響く。生気が失(う)せた芝生は心配ないが“頭上の木の枝の方は、すっかり葉が落ちてはいるけれど、しっかり耳をそばだてて2人の会話を聞いている”社会だから油断がならない。留守のあいだにキツネの敷物の足が切り取られたのは、
 ——お前もこうされるぞ——
 の合図かも。
 ストーリーの展開は乏しいが、これも密告をおそれてベールの下で進行しているから、かも。なにごともあからさまには語れないのだ。
 ルーマニア革命も遠い日の出来事となってしまい、この作品の著者に、
 ——今、ノーベル賞なの——
 という思いは拭(ぬぐ)いきれないが、政治的に圧迫された庶民を描く手法として興味深い。

 評・阿刀田高(作家)
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 山本浩司訳、三修社・1995円/Herta Muller 53年生まれ。作家。本書は97年に出た邦訳の新装版。

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