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完全なる証明―100万ドルを拒否した天才数学者 [著]マーシャ・ガッセン

[評者]尾関章(本社論説副主幹)

[掲載]2010年01月17日

[ジャンル]科学・生物 ノンフィクション・評伝

表紙画像


■「空想世界」に生きて、知の孤独体現する姿

 数学のど真ん中を突く本ではない。それをめぐる知の孤独に迫る。
 孤独を一身に体現するのは、難問中の難問である「ポアンカレ予想」の証明を成し遂げたロシアの数学者グリゴーリー・ペレルマン氏。2006年に数学界最高の栄誉であるフィールズ賞を辞退した。その数奇な半生をジャーナリストが描いた。
 著者は、本人にじかに取材していない。人を介して申し込んでも応じなかったからだというが、それを補う強みがあった。本人と同じ時代、同じように旧ソ連のユダヤ人家庭に育ち、同じように数学専門学校へ進んだという経歴だ。そのころはソ連の思想も理想も色あせて「私たちの世代は、もはや何も信じてはいなかった」の一言に実感がこもる。
 旧ソ連では、数学も政治に揺さぶられたが、結局は「鉄のカーテンのこちら側」での発展を許される。「数学ならば、国家に干渉されることなく(中略)知的な研究生活を送ることができそう」という雰囲気が生まれた。そこに花開いたのが、数学五輪や数学専門学校など英才教育のしくみだ。これが「ペレルマンを生み育てた世界」である。
 彼は、周囲が「ロープで仕切ってくれた数学という空想世界」で成長し、後年、現実と自らが求めるものとの隔たりに気づくと自分の世界にこもったという。それは、巨額の懸賞金や有力大学のポストをもってしても誘い出せない深淵(しんえん)らしい。
 ポアンカレ予想では、パンでも石ころでも穴のない塊の表面は本質的に同じ、という理屈を高次元の世界を舞台に考察する。宇宙の形にかかわるともいわれるが、「ペレルマンが興味をもったのは、物理的な宇宙の形などでは断じてなかったし、その中で暮らす人間でもなかった」。
 彼が手にしたものは「自分の空想世界の中で、抽象的な対象とともに生きる自由」だったのである。
 数学の成果は実験では検証できない。「そのために使えるのは、自分の頭脳——そして仲間たちの頭脳——だけだ」。だが、仲間たちがすぐに追いつくのは難しい。認められたという実感がなかなか得られないのだ。ここに知の孤独が巣くう。
 それは、出版社が作家にこうもちかけるのに等しいと著者はみる。「実を言えば、どの作品であれ、最後まで読んだことのある者は我が社には一人もいないのです。でも、あなたは天才だそうですから、契約書にサインしていただきたい」
 おもしろいのは、この証明の公表の場がウェブサイトだったことだ。学術誌への投稿なら、審査役の仲間たちが一人ひとりで査読する。だがウェブによる流布は「公開で討議するというプロセス」を促した。ネット時代ならではの現象だ。そこには「野心を棚上げして(中略)読解し、解釈することに全力を尽くした数学者が何人もいた」という。
 皮肉にも、孤高の数学者が仲間たちの連帯に火をつけた。その一点に一筋の光を見る思いがする。
   *
 青木薫訳、文芸春秋・1750円/Masha Gessen 67年、モスクワ生まれ。旧ソ連のユダヤ系知識人家庭の出身で数学専門学校に学んだ。アメリカに移住したが91年、モスクワに戻り、ジャーナリストとして活動。『Two Babushkas』(未訳)など。

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