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大腸菌―進化のカギを握るミクロな生命体 [著]カール・ジンマー

[評者]瀬名秀明(作家)

[掲載]2010年01月17日

[ジャンル]科学・生物

表紙画像


■しなやかで豊かな驚異の生き物

 酵母と大腸菌、どっちがかわいい? 飲み会で手持ちぶさたになった分子生物学の学生たちが繰り広げる定番の話題だ。大抵は真核生物の酵母の方がかわいいと合意して終わるのだが、この本の登場で大腸菌が巻き返すことだろう。実際、本書の最もよき読者になりうるのは、彼ら若手研究者かもしれない。
 核を持たない原核生物の大腸菌は、あらゆる生物の基本として世界中の研究室(ラボ)で取り扱われている。研究者は大腸菌を育てることで遺伝子と生きる仕組みの関係を学ぶ。大腸菌(E・コリ)を語ることはすなわち遺伝子研究の歴史を語ることだ。DNAの複製メカニズムは大腸菌で解明された。各遺伝子が回路のように作用し合って生体反応を総合的に制御している事実も、遺伝子変化と進化の関係も、まずは大腸菌を使って調べられた。著者の語り口は自然体で淀(よど)みない。大腸菌を主役に据えて遺伝子研究の勃興(ぼっこう)期から黄金時代までを語ってみせる。だがもしあなたが学生で、試験管とシャーレだけでしか大腸菌と向き合ったことがないなら、自然界のあちこちに生きて社会さえ形成し、耐性遺伝子を互いに受け渡している野生の大腸菌の描写に、新鮮な感動を覚えるだろう。本書には病原性大腸菌O(オー)157も登場し、自然環境と人工のラボを結んでくれる。大腸菌は遺伝子研究のツールである以前に驚異の生き物なのだ。
 大腸菌の精巧なべん毛は、創造説の証拠として利用されかかったこともある。インテリジェント・デザイン支持者と科学者の攻防を描く力のこもったくだりと、やはり大腸菌をきっかけに遺伝子改変の是非について論争がわき起こった歴史を描いた部分は、本書最大の読みどころだ。しかしその火照った話題を終えて最終章で論じられるのが、地球外からやってくる微生物の可能性の話なのだから楽しくなる。しなやかで、豊かで、夢に溢(あふ)れた大腸菌——と感じて本を閉じたなら、もうあなたは大腸菌が好きになっている。
 それにしても本書の訳者・矢野が手がけた本にはハズレがない。もはや信頼のブランドだ。
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 矢野真千子訳、NHK出版・2205円/Carl Zimmer 66年米国生まれ。サイエンスライター。

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