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水死 [著]大江健三郎

[評者]鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

[掲載]2010年01月10日

[ジャンル]文芸

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■木と水との融和へ、父子三代の生と死

 「作家は自身が一冊の本なんだ。一作だけ翻訳しても彼の身体の一部を切りとったにすぎない」——ある欧州の作家/翻訳家にそう言われたことがある。また、「作家の全作品が長い道筋として感知される」と書いたのは、ミラン・クンデラ。大江健三郎の本を読んでいると、これらの言葉が深く身に染みる。一つの小説が前作群と有機的に連動し、そのなかで前作と新作がたがいを註解(ちゅうかい)しあう形で、大江健三郎という書物の読みが更新されていく。
 『水死』は作者のペルソナ「長江古義人(ちょうこうこぎと)」を語り手に、永らくのテーマである父とその死に始まり、父、自分、息子三代の「川流れ」と「森に上ること」(死と弔い)を経巡りつつ次々と意外な展開を見せる。子供の頃から夢現(ゆめうつつ)に甦(よみがえ)るのは、終戦の年、大水の川へ短艇で乗りだす超国家主義者の父の傍らに、自らの分身「コギー」がいる光景。以前にも「水死小説」を書こうとし、父の書簡類が入った赤革のトランクを母に要求したが叶(かな)わず、全くの想像で父の死を小説に描いた。これが天皇を主題とした1972年発表の『みずから我が涙をぬぐいたまう日』という設定である。そのトランクが手に入る運びになり、「水死小説」執筆を再決意。劇団がこの創作過程をも取りこみ、長江古義人作品の演劇化をもくろむが、父の手紙は封筒しか残っておらず、「水死小説」はまたも頓挫(とはいえその成り行きまでが『水死』という小説の一部となる)。次には、農民一揆の物語の舞台化が進行する。古義人は自らの「深くて暗いニッポン人感覚」と向き合うが……。
 死者が遺(のこ)した手紙と聞いて、自殺した義兄から録音テープが届く『取り替え子(チェンジリング)』のような構成を想像したが、読むはずの書類はすでになく、「読み」の対象はどんどん他へ移りながら拡(ひろ)がっていく。劇団員「ウナイコ」が漱石の『こころ』を実験演劇に仕立て、「先生」の遺書の意味や「時代精神」が批評されたり、父が師からの政治教育として繙(ひもと)いたフレイザーの『金枝篇(へん)』や、エリオットの「荒地(あれち)」の解読があったりする。
 そんな中で私が惹(ひ)かれたのは、「読みたがえる」ということである。本作に限らず、作者の中では、かねて「読み」の微妙なユレ・ブレ・ズレおよびその連鎖が、大いなる創造の推進力として作用してきたのではないか。大江氏は時おり外国文学の原文と訳文を並べて作中に引くが、本書第三部に、創作の源泉にふれる箇所(かしょ)がある。古義人が「(訳詩が)原詩と響きあ」い、「訳詩と原詩のズレの、奇妙な味のおかしみ」が生まれることで、初めて詩がしっかりと受容されると言うと、相手は「(あなたの)小説もそこで生まれるんじゃないですか?」と応ずるのだ。実際、古義人も『水死』の枠組みとなった「荒地」のある一行の理解は、訳文の「誤読によって成り立っていた」と言うのだが、その誤読が表象を重層化する起爆剤となる。読み違いならぬ「読みずらし」から来るポエジーである。
 『水死』でも人々は様々に読みたがえる。『みずから……』でHeiland selbst(救い主)という独語が「天皇陛下」と意訳されたことが論じられ、父は将校らの冗談を読み違え(ていたらしく)、障害をもつ息子「アカリ」の逸(そ)れた言葉が新生をもたらし、強姦(ごうかん)体験を元にしたウナイコの一揆芝居は原作の個人的な読みずらしを含み、父に憑(つ)いた物の怪(け)は半世紀余りの時と文脈のズレをもって他の憑坐(よりまし)を見つける。中でも重要なのは「森々(しんしん)」と「ビョウ々(びょうびょう)」の読み違いだろう。折口信夫の文に、篤信者の魂が「ビョウ々たる海波を漕(こ)ぎゝつて」浄土に到(いた)り著(つ)くとあるのを、土地の信仰(死んだ魂は空に昇って森に戻る)を想起した父が「森々たる海波」と誤読すると、そこで木と水の境界はぼやけて融和し、本作の核となるイメージが浮かびあがる。アカリの台詞(せりふ)が予期せず真実をつくように、言葉のズレは時に隠れたものを露(あら)わにし、ウソを探知する。作家の心に欠かせないと前世紀の小説家が言った「shit detector(インチキ探知機)」は、作者の中で自己批評を含めて仮借なく働いている。

 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)
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 講談社・2100円/おおえ・けんざぶろう 35年生まれ。大学在学中の58年、「飼育」で芥川賞。94年、ノーベル文学賞。『取り替え子』『憂い顔の童子』『さようなら、私の本よ!』『臈(らふ)たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』ほか。

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