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芸術か人生か!―レンブラントの場合 [著]ツヴェタン・トドロフ

[評者]横尾忠則(美術家)

[掲載]2010年01月10日

[ジャンル]アート・ファッション・芸能 ノンフィクション・評伝

表紙画像


■私的な世界を排し普遍性を開く

 レンブラントの作品をすべて色と形だけで解明することはできない。そう考える多くの評者は、その背後にある彼の思考に光を当てようと試みてきた。
 ピカソと同様、レンブラントの大量の自画像にその秘密が隠されていると感じるとき、まず一般的に考えられることは自分のことしか関心のないエゴイストのレンブラントである。しかし、もしそうだとすれば彼の作品は時代を超えた普遍性をもち得なかったはずだ。
 例えば大げさな扮装で王侯や乞食(こじき)、死刑執行人から犠牲者まで演じたコスプレは、ナルシスト以外の何者でもないと判断するのが一般的な見解であろう。だが彼のコスプレは自らを描くのではなく、単にモデルの役を務めているだけなのである。
 そこが凄(すご)い。自身が家族や周囲の人間をまるで私小説のように個人的な世界として描くのではなく、私的な世界を排することにより個人を個という普遍性に転移させているのだ。私的な世界は普遍性を閉じて、ちんまり収まった世界に陥る危険性をはらんでいるので、絵画が芸術として成立するかどうかがこの一点に絞られている。
 日本人になじみ深い岸田劉生の「麗子像」が麗子で終わるのか、それとも作者の自我への執着が普遍的な人間一般へと混合するのか、そこが美の決め手であろう。レンブラントの驚異は自画像に限らず、自身の子供や妻に対する実生活の経験も、彼の芸術の優位性によって、愛情がないのではないかと思わせるほどますます乖離(かいり)していく。
 レンブラントは、この芸術的創造に不可欠な条件として、自らが他者の外側に立つことを許している。だから、鑑賞者はその作品の中に、彼や彼の子供や妻を認めるのではなく、鑑賞者である自らを作品を通して再発見するのである。
 芸術家である以上、個人を超えた個としての普遍性をいかに手に入れるか、それが彼の最重要課題となる。それにしても、レンブラントの家族たちは彼の創造と、芸術家としての彼に、心ならずも知らず知らず奉仕させられているのである。
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 高橋啓訳、みすず書房・3780円/Tzvetan Todorov 39年生まれ。哲学者。他の絵画論に『日常礼讃(らいさん)』など。

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