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湿原のアラブ人 [著]ウィルフレッド・セシジャー

[評者]小杉泰(京都大学教授)

[掲載]2010年01月10日

表紙画像

■砂漠の中のみずみずしい世界
 アラブの部族民と言えば、砂漠の民という印象が強い。ところが、イラク南部には、ユーフラテス川とチグリス川が作る巨大な湿地帯があった。面積は関東平野の6割程度にあたるほど大きい。ここに長らく独自の生活をしてきた民がいる。
 マアダンと呼ばれる湿地帯住民は、水面に浮島のような土地を作って、7メートルもの丈の大アシを束ねて家を建てる。水牛を飼い、カヌーで水路や湿地を縦横に移動する日々を送る。
 著名なイギリス人探検家の著者は、そんな不思議な人びとの間で、足かけ8年にわたって過ごした。その前にアラビア半島の茫漠(ぼうばく)たる砂漠を横断し、アラビア語に習熟し、アラブ部族民の慣習に通じていたからこそ、可能な体験であった。
 50年前の体験記であるが、昨日の出来事のようなみずみずしい叙述が続く。客のもてなしぶりや、器用に舟を操る技術は、現在のイラク南部にも残っているに違いない。
 ほとんどの村に訪問者を泊めるためのゲストハウスがあるという。たとえ、それがなくとも誰かの家に泊めてもらうことができる。著者は、友人の族長にもらった舟で、村々を訪れて暮らしていた。
 舟から荷物を運ぶ時は総出で助けてくれるのに、帰る時は誰も手伝わない、というのも面白い。帰ってほしくない、という表現なのである。
 いきがかり上、著者は素人医者を務めることになるが、それ以上に評価されたのは衛生的で上等な「割礼師」の役目であった。若者たちとの交流の様子もユーモラスで引き込まれる。
 実は、湿地帯の素朴な生活にも、やがて容赦なく近代化の影響が及ぶ。著者のイラク訪問も、1958年の共和革命で途絶することになった。20世紀の終わりには中央政府の手が及ばない湿地帯は革命派の拠点となり、サダム・フセイン政権によって強制的な干拓が進められ、湿地帯の大半が破壊された。
 このすばらしい世界が、もはや本書の中でしか体験できないとしたら、何と悲しい喪失であろうか。
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 白須英子訳、酒井啓子解説、白水社・2730円/Wilfred Thesiger 1910〜2003年。

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