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建築とは何か―藤森照信の言葉 [著]藤森照信 

[評者]平松洋子(エッセイスト)

[掲載]2011年03月27日

[ジャンル]アート・ファッション・芸能

表紙画像


■過去、現在、未知へ縦断する思索

 藤森照信の言葉は、建築を語りながら、同時にべつのだいじなことを物語っている。ずっとそう感じてきた。
 建築の意味をさぐる思考が、過去、現在、未知、意識や無意識の領域へ触手を伸ばす。つまり、建築物という「かたち」にたいして激しく目玉を運動させながら、人間の存在をもとめる思索がしきりにおこなわれているのだ。しかも批評にとどまることをせず、すこぶる風通しよく、内にも外にも開かれている。だからこそわたしのような素人にも居場所があり、建築を理解する手引になってくれる。
 周到な一冊である。右の偶数ページは文章、左の奇数ページは「高過庵のできるまで」四年間におよぶ全スケッチ。精密な図面や模型写真ではなく、迷ったり発見したり行きつ戻りつ、模索の過程が身体の動きとリアルに合致するさまをつぶさに見せる。手描きのスケッチは「表現者としての建築家」を、文章は「言葉で考える建築史家」を。二本柱の人物の内実を本じたいが体現するかっこうだ。
 後半の第2部も切れ味するどい。安藤忠雄、石山修武、伊東豊雄、原広司、布野修司……日本を代表する建築家たちの質問に正面を切る真摯(しんし)で直裁な言葉に、建築の野原を縦断してきた思索の足跡がみてとれる。ル・コルビュジエによる近代建築の五原則に対抗すべく「フジモリ五原則」を問われ、「柱」「土」「洞」「火」「屋根」。二十一世紀の建築と自然や歴史との関係を明快に提示し、かつ示唆に富む。
 そもそも巨(おお)きなひとなのだ。建築史家として過去に向かい、建築家として未知に向かう。タンポポハウスをはじめ植物まで融合させたどこか懐かしい建築表現は原始へ逆走するかのようだが、じつは強靱(きょうじん)な精神のなせる再生作業だ。体内にはきっと、あちこちの旧(ふる)い大地の記憶が養われているに違いない。
 であるならば、わたしも問いたい衝動を抑えられない。一瞬にして生命も日常も町も建物も破壊した東北のすさまじい惨禍を、日本の建築は、建築家は、どのように受けとめ、どう乗り越えていくのだろうか、と。
 評・平松洋子(エッセイスト)
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 エクスナレッジ・1890円/ふじもり・てるのぶ 建築史家、建築家。『日本の近代建築』など。

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