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無垢の博物館 上・下 [著]オルハン・パムク

[評者]江上剛(作家)

[掲載]2011年02月13日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■自分の愛だけに生きる切実な思い

 本書の著者、オルハン・パムクはイスタンブールという街を一つの文学的時空間にまで高めた功績で2006年にトルコ初のノーベル文学賞を受賞したというのだが、私はイスタンブールに行ったこともなければ、なんの関心もない。だから、たいして期待をせずに本書を読み始めた。ところが、上下巻の長い小説から目を離すことが出来なくなるほどひきつけられた。
 主人公ケマルは裕福な実業家の息子で、誰からも祝福される相手スィベルと婚約しながら、同時に遠縁の18歳の美しい娘フュスンと肉体関係を持つ。次第に、彼はフュスンに溺れ、会えない時は、アパルトマンでひたすら彼女との思い出の品々をめでるという暮らしを続ける。
 なんと彼女の吸ったたばこの吸い殻を4213本も集めたりする。彼にとって「とっておきの秘密のコレクション」なのだ。フュスンとの関係は、悲劇的な結末を迎え、彼はイスタンブールの市街に、フュスンとの思い出の品々を展示した「無垢の博物館」を作ろうとする。
 この究極のフェティシズム小説とも言える物語が、なぜ私を魅了するのか。舞台となった1970年代から80年代のトルコは、西欧の影響を受け、人々の生活や意識が大きく変化し、共産主義者と民族主義者が争い、クーデターが起きるという激動の時代だった。そんな時代をまるで拒否するかのようにケマルは若いフュスンに耽溺(たんでき)し、翻弄(ほんろう)され、人生を破滅させていく。
 その姿は愚かだと侮蔑しつつも、なぜかうらやましい。ひたすら自分の愛だけに生きるケマルの姿は、時代からの逃避というよりむしろ時代に適当に追随していく人々への強烈な批判だ。それは経済危機など時代の激変に遭遇し、進む道を見失っている私たちに向けられている。彼のように生きることが出来たら、どれほど幸せだろうか。「切実な思い」が本書の魅力なのだ。
 パムクは、イスタンブールに「無垢の博物館」を実際に作ろうとしているらしい。そこに入館すると、きっと私は安らぎを覚えるに違いない。

 評・江上剛(作家)
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 宮下遼訳、早川書房・各2310円/Orhan Pamuk 52年生まれ。『わたしの名は紅(あか)』『雪』など。

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